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 そう、この頃はこうやって屈託なく笑う人だった。その腕は私を優しく抱き寄せることにしか使われることはなかった。それがずっと続くものだと私が信じていた頃。  この部屋は、8年前に私が暮らしていた部屋。 「今日はなんだかおかしいね? 疲れてるのかな。食事は外でする?」  私を抱いたまま、額に口づける。目をなかなかあわせられない私を覗き込んで、くすりと微笑み、今度は頬に口づける。今の私の体は覚えていないはずの痛みを頬に感じる。何日も消えなかった青黒い痣はまだついていないのに。まだ覚えていないはずの恐怖が首筋の毛を逆立てていく。こんなにも優しい人だった。この優しさの記憶が、3年後の私を苦しめた。  私が悪いのだと思った。あんなに優しい人が変わったのは私のせいだと思った。仕事で疲れているのに、話し掛けた私が悪いのだと思った。むせるような熱帯夜なのに、肩に手を触れたのが悪いのだと思った。店で品切れだったからといって、この人の好きな銘柄とは違うビールを買ったのが悪いのだと思った。だって、あんなに優しかったのだから。 「おかぁたん?」  首に回される細い腕。小さなえくぼの出る手。おでこ同士をくっつけて私を覗き込む、形だけはあの男によく似た目の男の子。何度も抱きしめては泣いた。ごめんねと。お母さんが悪かったの。お父さんを怒らせちゃってごめんねと。     
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