現れた男

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 それからあたしは二十間坂をのぼり、圭介との思い出の、ハリストス正教会に向かった。  正面には函館山。  後ろを振り返れば函館湾が見える。  函館は坂の街でもある。  吉岡のことは結局言えなかった。  他人がどうこう言う問題ではないし、すべては本人たちの気持ち次第だ。  吉岡の言葉が思い出された。 「本当に相手のことが好きなら奪うべきだ」 「後悔したくない」 「取り戻せるチャンスがあるのなら出来るかぎりのことをしたい」  いずれの言葉も、のどに刺さった魚の小骨のように、あたしを悩ませる。  完全に否定できないあたしがいる。  教会の三角錐の鐘楼が見えてきた。  屋根の上には十字架。  静かに青空に映えている。  ここに来ると敬虔な気持ちになる。  圭介との思い出はたくさんあるが、真っ先にここを思い出してしまうのは神聖な場所だからだろうか。  拝観料を払って聖堂の中に入った。  祭壇とキリストの復活などを描いた宗教画が目に入る。  高校の時、圭介とこれらの絵画を見て、あたしは神様に祝福されているような気持ちになった。  ふたりは将来こうして寄り添い、同じものを見て、同じ道を歩んでいくのだと思った。  でも、それは勝手な思い込みと錯覚だった。  現にその頃から、圭介の気持ちは理恵子の方を向いていた。  おそらく彼が宗教画を見て考えていたのは、あたしとは別のことだっただろう。  こう思った時、あたしの中に邪悪な考えがムクムクと湧いてきた。 〝吉岡が理恵子を奪えば、圭介はあたしの所に戻って来るかもしれない〟  あわてて否定したが、あたしの邪悪な心は、神様が眉をひそめるくらいに、どんどん大きくなっていった。  あわてて教会から退散する。  何度もつまづき、転びそうになりながら坂を下りる。
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