朧月に、うたう

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 私は大学を受験する少し前に、出身高校の音楽教師の紹介状を持って、既にこの教授のレッスンを受けていた。  それは入試では特に優遇されるものでもなく、音楽科を受験する者にはありがちな事。課題曲と、自由曲を四曲(入試ではクジ引きでその中から一曲を選んで歌う)、計五曲のレッスンを受ける為、週に一度教授の家に通った。    “恋の歌は歌えない”とは、その指導の中での言葉。  子供の頃から歌が上手だと言われ続け、高校の音楽教師にも太鼓判を貰っていた私に突きつけられた現実は、“本当の恋を知らない”ことだった。  いつか誰かに見初められ、愛されることをただ夢に見るだけの、無知で臆病な自分。そんなもの知らなくたって私は歌っていられる、そう信じていた。  受験した大学に入学が決まり、奇しくも同じ教授に拾われた私はまた“恋を知らないならこれから知ればいい”と言われて意地になっていたのかもしれない。  それなら歌の為だけに恋をしよう、そうしてその恋を自から捨てて、恋の喜びも苦しみも理解してみせる、と。そして大人の声を手に入れて教授を見返したい、と。  相手が誰でもいいわけじゃない。男を漁るような品のない女にはなりたくない。そうやって悩んでいる時に目の前に現れた彼に、私は簡単に、あっさりと恋に落ちた。  彼に惹きつけられる人間は私だけじゃないのだろう。けれど、僅かなこの接点だけを頼りに、私の中に眠っていた何かが揺り起こされる。彼を知りたい。彼の近くで同じ景色を見てみたい。  そのうち気付けば学食でも会うことが増え、学部もサークルも違うのに私達は急速に距離を縮めた。    私達は似ていた。容姿や性格ではなく、見ているものや感じるものが、同じ方向を向いている。  そうして私達はいつしか同じ音楽を聴き、静かに寄り添う時間を大切にするようになっていた。
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