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真っ暗な、月のない夜だった。
頼りない街灯の光は広がる夜闇に吸い込まれて霧散し、時折雲の切れ間から降り注ぐ僅かな星明かりも足元までは遥か遠い。
大学生になって良かったことの一つは、こんな闇夜でも一人で外出できることだと思う。藍弥は誰にも見られず口元をほころばせた。
一番好きなのは、じっとりと蒸し暑い夏の夜。
目に見えない水の粒が街灯や信号機の光をぼんやりと滲ませる。真っ直ぐに続く道が淡く照らされる様は幻想的で、宇宙まででも歩いて行けそうな気持ちになった。
しかし。春の夜もまた、良い。
冬の厳しさを残す夜気が肌を刺すのも心地良かった。日差しの名残が、柔らかな土の匂いとともに立ち上る。
地方の大学に進学するために都会から引っ越して来たばかり藍弥にとって、見るものすべてが輝かしく、珍しかった。
土地も、一人で暮らす世界も。
不思議と、見たものが違って思える。
夜の散歩は、そんな開放感の中、なんとはなしに始まった、まだ三日目の習慣だった。
塾帰りに感じてきた夜の空気を、胸にいっぱい吸い込む。
喧騒に溢れたあの街よりも清々しいはずなのに、どこか懐かしさを感じるのは、3月も下旬なのに冬の寒さを思わせる、北国の夜のせいかもしれなかった。
たかだか一週間程度の一人暮らしでも、望郷の念は微かに芽生える。
藍弥はノスタルジックな思案に沈みながらあてどもなく彷徨い続けた。
懐かしいことが新鮮で、今は嬉しい。
今日歩いているのは、河原へ向かう道だった。
アパートを出たとたん迫りきた深く濃い夜気に魅せられ、より漆黒の気配が強い方へと漂って来た。
眠る住宅街に人影はなく、ポツポツと門灯の灯りが不寝番を勤めているだけだ。
しかしここまでくれば、もはやそれもない。
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