第一章「あ」

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第一章「あ」

 「ありがとう」と、彼女は言った。  横山優理子と初めて話したきっかけが、彼女の消しゴムを拾ったことだったと言ったら、「今どき、三流のラブコメでもそんな始まり方はしない」って笑うだろうか。でも、それは事実なんだから仕方ない。  彼女の机から授業中にポトリと落ちた消しゴムを、僕は椅子に座ったまま腰をかがめて拾う。右手の平の上に乗せて、小声で「はい」と言って渡そうと手を伸ばした。彼女は受け取るよりも前に「ありがとう」と小さな声でお礼を言った。    彼女はその白い手を僕の右手の平の上に伸ばすと、広げた僕の手の平の上から、消しゴムを右手の親指と中指でそっとつまみあげた。そして、その二つの指の先端が、僕の手の平の上にそっと触れた。  やわらかく触れた彼女の指先から、僕の手の平の上に彼女の温度が伝わった。そうして僕の手の平に残った彼女の温度は、その表面に留まることなく、手の平から体内へと染み込んでいく。その温度は、手首から上腕へと伝わり、静脈を通じて、僕の心臓へと、肺へと、脳幹へと広がった。
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