第一章「あ」

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 彼女のミルクのような艶の手先は、僕の右手の平の上を離れ、彼女の平らな木机の上へと戻って行ってしまった。床に落ちていた消しゴムも、彼女の机の上のペンケースの手前に姿勢を戻して落ち着きを払いだす。  僕はなめらかな感触の残る右手の平を一度握りしめると、その手でシャープペンシルを拾い上げ、左手で教科書のページを一つ捲った。  僕の右手の平には、消しゴムと引き替えに、触れた彼女の指先により、暖かな種火が残された。その種火は僕の右手の平の上から、彼女の温度を伝え続けている。そこに残った彼女の温度は、それからずっと放熱されて消えるようなことはなかった。  火の温もりは僕の脳を熱くして、僕を授業の内容から遠ざけた。僕はちらりと右隣の横山優理子の方に目を遣る。教卓の方を向いていた横山優理子も、そんな僕の視線に気付いて「どうしたの?」というように小首を傾げたが、僕は何も返すことができず、ただ、小さく「なんでもない」と首を振った。そんな僕に、横山優理子は微笑んで、消しゴムをもう一度、小さく持ち上げると、「ありがと」という口の形だけを作り、そして、黒板の方へと向いた。    肩まで伸びた彼女の髪が、制服の肩口に流れる。校舎の窓ガラスからの差す陽の光が、ノートを押さえる彼女の左手を照らす。その指の一本一本はしなやかに伸び、横罫線の入ったノートを押さえていた。
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