2人が本棚に入れています
本棚に追加
「熱いんでお気をつけください」、と声がし僕はコックリと頷く。店員の顔は目に映らない。慎重にどんぶりを自分の前に下ろす。立ち上がる湯気に含まれる力強い醤油の香りが鼻を通って僕の中に欲望の間欠泉を掘り当てる。粘ついた欲望は体を内側から舐めまわし、最終的にみぞおちの内側あたりに居住地を見つけたようだ。箸立てに手をかけ、二本を垂直に引き抜く。目を閉じる。両手の親指と人差し指の間の溝に挟むようにし、合掌。目の前の炭水化物と脂肪の塊以外の全てを追い出すよう意識する。いただきます。
改めて前を見る。視界はそびえ立つバベルの塔によって占められている。人間の欲望が凝集し、形をなしたように禍々しいラーメン。赤い器の中では暗く、鈍く光る茶褐色のスープが世界を支え、その中では太く柔らかい麺がとぐろを巻いている。上に乗るのはもやしの山と、降りかかる白い背脂。どんぶりともやしで作られる歪なひし形。そして、立ち上る湯気の台風。塔に巻きつきながら登り、僕のメガネを曇らせる。二秒程、静止する。焦らす。体内で欲望が強烈な香りに反応して震えているのを感じる。脳に浮かぶ狼のイメージ。これからの儀式は食事というより、狩り、闘いである。故に前にいるのは屍肉ではなく、生きた雄牛。自身よりはるかに大きい獲物。焦らすことで自身の中の狼がより大きく、毛並みは艶やかに、牙は鋭くなることを知っている。僕は普段特に大食いという訳ではない。身長こそ平均よりやや高めであるが体型は痩せ型でかつ猫背で座るため他人には実際より小さな印象を与える。それでも僕にあるのは恐怖ではなく、挑戦心。
もやしから取り掛かる。シャキッ、シャキッ、ゴクン。濃く、熱いスープと麺を求めて暴れるがまだ焦らす。上に乗るもやしを口に運び、しっかり咀嚼して飲み込む。「カラメ」と呼ばれる特製醤油がかかっているので退屈せずに手と口は動く。一連の動きとシャキシャキがつくる軽いリズムが脳から過去を削ぎ落とし、僕は今のみに生きる欲望そのものになっていく。時折口に入る背脂がのちに訪れる衝撃の期待感を高める。僕と狼の境界は曖昧になっていく。目は鋭く、背は丸く髪は逆立っていく。ぐるるぅ。
最初のコメントを投稿しよう!