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 人の気配が動いた。  「……帰りたい」  濡れた髪から滴った水が真中の蟀谷から頬、丸い顎へと伝っていく。頼りなげな声を聴きながら、真中の横を通り過ぎる。応接用のローテーブルの上からメモ帳と茶封筒を取り上げた。  『どうぞ』  ラテックスの手袋のままで茶封筒に引き千切ったメモを添えて渡す。真中はそれを受け取って、逃げるように視線を外す。興味本位の小金稼ぎに後悔の色が見えた。  この場にいることすら(おぞま)しいと言うように踵を返し、真中は階段へ向かう。  深く息を吸って、吐いて後に付いた。  「なに、」  その呼吸音にびくと真中の肩が跳ねる。肩で息をしているのがわかる。  「なん、ですか」  弾かれて振り返った真中が警戒と恐怖の色でレックを見る。レックより、真中の背はやや低い。  よく見れば扁桃(へんとう)型の眸は密な睫毛に覆われており、凡庸だったはずの顔はどこか雌の匂いをさせていた。  こんなにも簡単に人間は危機を記憶する。  『鍵を締めますので』  「そう、ですか」  安堵の中に失望が滲んで見えた。  人間が簡単に記憶するのは恐怖だけではなく、快楽も同じだ。  この男は、期待している。  階段を下りる後ろ姿が(しな)を作っている。  誘うようなあざとさに気が付かないほど、経験不足ではない。  だが、興味もない。  尿道プレイができる俳優を頭の中で検索した。  3人に思い至ってこれ以上は不必要だという結論に至る。  殊、学生は面倒だ。  フリータ、元ゲイ向AV男優、専属。  いずれも社会との繋がりは薄く、学生ほど交友の範囲もない。どこかへいなくなったとしても探す人間はいない。  学生は家族があり、親があり、友人がある。  そういうものだと、レックは知っている。  小さく着地の音を立てて真中の踵が床に付いた。  振り返った瞬間に、メモを差し出す。  『必要な時はこちらから連絡をします。』  言葉を紡ぎかけた唇が、呆けたように開いたまま、眦が気色ばんだ。
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