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◇◇◇ ―――掻き分ける。  ネオンに照らされた女の顔。  糞暑い最中のサラリーマンの背中。  ガキの騒ぎ声。  声に粋がったものが混じって、神田はその肩を掴み、追いかけてくる雑種の集まりに向けて押しやる。  怒声。  骨のぶつかる音。誰かの呻き声。  地面を蹴る。  跳ねるように歩行者天国を抜けて、幅員の狭い路地を選ぶ。脇道に体を流し込む。ネオンは急に暗くなり、背の高いビルとビルの間でびちゃと誰かの吐瀉物を踏みつけた音がした。追いかけてくる足音が一列を作ったとき、爪先に力を込めて身を反転させた。  じゅると、歪な音。  踏みつけた吐瀉物の残骸がアスファルトを滑る。  拳を前に付き出す。  拳は駆けてきた男の鳩尾を抉り、後続が滞る。前にのめった男の不格好な喘ぎが神田の胸元まで落ちてきた。その鼻梁の高くなり始めた辺りに意識して中手骨間接を叩き込む。固い音がして男は、曇天を仰ぎ見た。胸ぐらを掴み引き倒して、頭を踵で踏みつける。顔面の一部が割れる音。鈍い、心地よい音が耳を突く。  後頭部から踏み出して、ふたり目の前髪を掴んだ。右腕を広げて壁に顔面を擦らせると声が上がる。鼓膜を震わせて脳髄を刺激し、ざわざわと肩口を震えさせる声。髪を鷲掴みにしたまま、全力で男の顔を壁に擦る。抉れた頬から鉄の臭いがして、既に力の抜けた膝裏を蹴飛ばすと容易に膝をついた。男は掌で血の流れる顔面に触れようとする。蟀谷に爪先を叩き込む。ガゴンと立て続けに鳴った音で壁にバウンドした男が倒れてきた。  邪魔だった。  足先で押し退けるとさっきまで頬擦りしていた壁に巨体がしなだれる。心拍が上昇する。  『おいかけっこ』が原因じゃない。頬に熱が集まり、毛先の、細いところまで神経が行き渡り、逆立つ。血液は下腹部に集中し、海綿体がそれを吸い込んで硬く張っていくのがわかる。  堪らない。  3人目の顎に肘を滅り込ませたとき、4人目の腕が伸びて前髪を引き捕まれた。振りほどくとブチブチと音がして毛根がついたままの髪が簡単に抜けた。痛みが体の中に響いて余計、勃起する。  多分、自分はドMなんだ。  体の熱と裏腹に明瞭な頭の中で神田は考える。今この瞬間は自分を裏切った女も関係ない。興味のない『クスリ』をくすねたことになっている事実も関係ない。目の前でぼこぼこになってく男の顔も関係ない。そいつが何者かも関係ない。  生きてる。  拳を降り下ろし、見知らぬ坊主頭の顔面に拳をめり込ませながら感慨を懐く。  生きてる。  生きてる。生きてる生きてる生きてる。  ただその実感だけが神田の陰茎に血を巡らせ、海綿体を膨張に追い込み、喜悦に唇を歪ませた。 「あー、死んでしまいそうだ」  妙に間延びした気の抜けた声が明るい方から聞こえてきた。熱る体を急激に冷やす声だった。頭の芯にぶちこまれた氷の礫に虚を突かれ、込み上げた徒労感に手元を見た。  手中で無抵抗な男が絶え絶えに息をしていた。 「四十路になると走るのも億劫で困る」  逆光にはっきりしない顔。その体躯に神田は新しい獲物を見た。泰然として気怠げだが、この獲物は自分を充足させるに足る者だ。  判断は一瞬だった。  気づけば踏み出した足が回転を増し、男のシルバーフレームに膝を入れようと跳躍した。  次の瞬間、右の頬から自分の踏み散らした吐瀉物に突っ込んでいた。男は片手をグレーのスラックスに入れたまま、他方の手で携帯電話を耳に宛がっていた。左頬が熱を持っている。何が起こったのか理解できなかった。 「女の方は確保しましたか?」  男の黙殺は臓腑からの苛立ちに直結した。興奮とは別の紅潮が、額から後頭部に染み渡る。腕のバネを使って跳ね起き、爪先を股間めがけて蹴りあげる。予期せぬ感覚がそれを捕えた。 「電話中に金的は止めなさいよ」  違和感だらけの穏やかな言葉に、爪先はポケットに突っ込まれたままの手に捕らえられたのだと気付いた。  携帯を握ったままの堅い拳が神田の下顎を外す。立て続けに2発、的確に下顎を打ってきた。脳が振動した。目の前がヂカヂカと爆ぜた。片足で耐えるにはキツい衝撃を、意地だけで踏ん張ったとき、ふひっと短く息が漏れた。  男は少し眉を上げ、漸く神田の目を見た。  ネオンは背後にあるというのに、煌と光った男の瞳はグレーに近しい、暗澹の色をしていた。 「なに笑ってんだ」  男は言った。  嗤ってるのはお前だ。神田は言おうとした。  反駁しようとした言葉は、鳩尾で食い殺された。羽交い締めにしてきた巨漢の血の臭いが耳元からしていた。 「女はいりません。解体(ショー)の出演者が必要らしいので、そちらに回しましょう」  携帯に吹き込む声が聞こえた。  神田の蟀谷で、拳が爆ぜる。頬で、顎で、肋で。いくつかの暴力を受けながら、神田は男を注視していた。     
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