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そう言うと、彼女は決まってそれきり喋らなくなる。怒っているのとは違う、彼女なりの気遣いらしかった。18時半ころ、紺色のニットのワンピースを着た彼女が口を開いた。 「行ってきますのハグしていい?」 僕はペンの動きを止めて、何食わぬいつもの眠そうな顔をして支度の出来た彼女の方へ向いた。彼女はゆっくり僕の体に寄りかかった。うちの柔軟剤とヘアコンディショナーの香りが鼻を抜ける。 「頑張れそう」 千代ちゃんは唇がぶつかりそうなくらいの距離でそう言って、微笑んだ。大きく波打つ心臓の音がうるさくなって、彼女の声は聞き取りづらかった。 彼女が出かけていって、僕はまた机に向き直った。 この1LDKの部屋を出ると、彼女はもう僕の知らない人になるに違いなかった。僕は、彼女が外でどんな人かも何をしているのかも知らない。 僕は岡田 翔太。平凡な人間。仕事は絵本から小説、雑誌の挿し絵まで多岐にわたる。時々別の名前で官能小説の挿絵も描いていた。出身は北海道だが育ったのは東京だ。歳は26で、彼女はいない。好きな食べ物はオムライスで、もう2年くらい食べていない。 僕とセックスしていた美女は、高瀬 千代。歳は19歳。「パパ活」で生計を立てている。出身は多分東京で、僕の実家の隣に住んでいた女の子。好きな食べ物は不明。僕のことをどう思っているかも、不明。ほとんど1日中いなくて、夕方にちらっと帰ってきて、あとは夜中に寝に帰ってくる。 僕は彼女に何も聞けなかった。もし、デリケートな話に触れてしまって彼女が、うちに来なくなってしまうことを恐れていた。携帯番号もメールアドレスも知らないから、帰ってきてもらうためには干渉しないことが1番重要だった。だから僕らに大した会話はない。
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