第1章 かくして俺は転職を決意した

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いつこの会社を辞めようと思い始めたのか。 はっきりとした時期は俺にもわからない。 半年前なのか、一年前なのか、もっと前なのか。 気付いた時には、大手転職サイト『ビズサーチ』に登録していた。 40を過ぎた俺が、転職に踏み込むのはリスクが大きすぎる。 しかも、【転職先の会社が今俺が辞めようとしている会社より環境が良いとは限らないのだ。】 そんなことは誰に言われるまでもなく、俺自身が分かっていることだ。俺は、何度も何度も受け入れようと努力した。今、俺が置かれている境遇を。 しかし、俺の心の奥底にある、『核』のようなものが、それを断固として拒否していた。 それは、例えば、矜恃だとか、自尊心だとか、自分に対する誇りだとか、そんなものなのかもしれない。 いや、違うな。 【そんな軽いものではないはすだ。】 『心の核』とはすなわち『自分自身』。今の会社にこのまま居続けたら、【確実に自分を失ってしまう。】 心に刺さった棘がじくじくと痛み出す。棘の周りから血が滲み出し、その血が心を赤く染め、侵食してゆく。【少しづつではあるが、確実に。】そして、最終的には血に侵食された心は壊死してしまう。 その瞬間、俺という人間は消滅し、俺でない人間、いや、それはもう人間とも呼べないのかもしれない、何か得体の知れないものが、新しい俺として生まれてくる。 俺は悪霊に憑依される自分自身を想像してみた。自己を失うということはすなわちそういうことだ。 全てを諦め、家族と俺自身が食っていくためだけに、【心を消して】今の会社で働き続けるという手段もなくはなかった。むしろ、それが生きてゆくために最も安全かつ賢明な手段であり、多くのサラリーマンがそうして働き続けていることであろうということもわかっていた。 しかし、心のスイッチをオフにして、まるでロボットのように働き続けていけるほど、俺は器用ではなかった。 俺がそうなったとしたら、さぞかしできの悪いロボットになるはずだ。 俺は周りからは、ずいぶんと器用な人間だと思われているようだ。何事もソツなくこなし、いつも涼しい顔をしている、と。 言っておくがこれは決して自慢しているわけではない。【人間というものは多面体だ。】周りから器用に見えている俺はその多面体のうちの一つの面に過ぎない。
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