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あと何時間かで八月が終わる、水曜日の夜だった。  なんとなくチャンネルを回し損ねたまま観ていたナイター中継では、コンスタントに失点する先発ピッチャーが早々に交替させられていたのを憶えている。 「……乾さんどっち?」 「ベイ。地元だもん」 「あ、そうなんだ……」  感心したように瞬きをした青年の、無頓着な性格を非難する理由は特にない。知り合ってから、個人情報の収集に与えられた時間はふたり平等だったが、成果にはずいぶん差がついていた。  弛みそうになる唇を煙草を持つ手で隠しても目元までは隠せず、気付いた慧斗が決まり悪そうに俯く。さらりと分かれた後ろ髪の間からうなじが現われたので、浮き上がったその頚椎に向かって話しかけた。 「中村くんは、中華好き?」  上目遣いの慧斗が、うん、頷いて、どちらともなくまたナイター中継を眺める。解説と、その向こうに流れるホーンセッション。  しばらくして、身じろぎの気配の後、細い腕がローテーブルに伸ばされる。ニコチンが切れた中毒者のそれだと思い遣って見ていると、その手は水色のケースではなく、もっとスマートなケースを取り上げた。チャリ、軽い金属音を立てて彼の手のひらに収まったそれは、イギリスのパンク文化を象徴するブランドのキーケースだ。  キーケースには、鍵が三本付いている。その三本のうちの一本は原付バイクの鍵で、残りの二本はまるきり同じ型のものだ。 「あの、これ……」  言葉を選んで選びきれなかったように、口ごもる。彼がクールな表情に少し色味を注して、よかったら、と最後に付け加えて差し出したのはアパートの鍵。マスターキーと合鍵を両方持って歩く、無用心なところが少し心配だった。 「ありがと……預金通帳は隠しときなよ?」 「……狙わないでください、俺の薄給を」  表情に困った様子で微苦笑する慧斗に笑い返しながら、存在感を確かめるようにぎざぎざの側を指の腹で撫でる。 「うん、茶化さないで言います。ありがとう」  それは金属でできたゴーサインだった。
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