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 あれから幾度、桜花を見たのか思い出せない。  弥之介は、徳利から直接酒をあおった。  頭の中がどろりと(よど)んで、生きるとか死ぬとか、もはやどうでもいい。  だが、酒の力をもってしても、忘れられないことはある。  桜花は、きらいだ――  鮮血に濡れた紅葉の手が、ぶるぶると震えている。  絶え間なく散り、舞い落ちる紅い花びらが、ぱちぱちと音を立ててはじける。  そうじゃ無い。  舞い上がり煌めき落ちる朱い欠片は、桜吹雪ではなく、火の粉だ。  いつしか辺りは、紅蓮の炎に包まれていた。  燃えさかる炎の中で、俺が刺したのは、母を斬った男。  そして――俺の、父だった。  思い出せない。  思い出したくない。  だのに……  あの感触が、血の臭いが、忘れ去っていたはずの記憶を蘇らせた。  耳障りな金切り声で、口汚く罵る。いつもの、優しい母上のようじゃ無い。  耳を塞ぎたかった。  と――いきなり目の前で血がしぶき、朽ち木のように母が(くずお)れて。  驚き駆け寄ろうとした拍子に行灯が倒れ、火が障子に移って燃え上がったのだ。 「や、のすけ……?」  驚いたような、どこか間の抜けた声。  男には、俺に対する害意は無いようだった。  俺を火事場から連れ出そうとさえしていたらしく思える。  でも、母を斬った。  そのことしか、頭に無かった。  父なんかじゃない。母を殺した、けだもの。  目の前にあるのは、ただ一面の、赤── 「つよい、こだ」  震える指が、頬に触れる。 「きっと、おまえなら、ひとりでも、だい、じょうぶ」  切れ切れにかすれた声音が、不思議に優しく響いた。 「だから…………」  すう、と息を()き、それから絞り出すように。 「いき、な、さい――」  その先の記憶は、無い。  前後の状況が、よく分からない。  肝心なことは、何一つ思い出せない。  二親の顔も名も、結局分からぬままだ。  それでも……  あの感触を、血の臭いを、関口の心の臓から溢れ出た血潮が己の手を染めた時、思い出してしまった。  その瞬間から、刀を握ることが出来なくなった。  いきなさい。  行きなさい。  イキナサイ。  生き──  事情はどうあれ、親殺しなどあってはならないことだ。  己の存在自体を否定するに等しい。  にもかかわらず俺は、未だのうのうと生きている――
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