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その日、速人が入店したときはただの曇りだったのに、食事を終え店を出る頃には土砂降りの雨になっていた。店のドア付近に円柱の傘立てが置いてあり、花柄のピンクの傘が一本入っていた。店内をぐるりと見回し、客席には人が座っていないことを確認する。となると、傘の持ち主は、立ってテーブルを拭いているバイトの女の子だと推測できた。店主は六十を過ぎたオヤジで、花柄ピンクの傘なんて使いはしないだろう。一瞬、この傘を拝借したいと思った。だが、借りたら借りたで、返すのが面倒だ。濡れて帰るか。ずぶ濡れになる覚悟を決め店を出ようとしたとき、ガラスの引き戸が開き、体を屈めた男が入ってきた。第一印象は、「大きな男」だった。背が高い。百八十センチをゆうに超えている。そして、胴体にしっかり付いた筋肉が、黒いカットソー越しに確認できた。速人が憧れている逆三角形スタイルそのものだった。悔しいことに顔も良かった。黒い短髪に、日焼
けした茶色い肌。目は切れ長で鋭さがあるものの、上がり気味の口角のお陰でおっかないイメージを払拭している。自分と同年、いや、少し年上かもしれない。落ち着いた雰囲気がある。
速人の視線に気が付いた男は「雨が凄いよ」と声をかけてきた。返事をするべきか速人が考えているうちに、男は傘立てから傘をひょいと取り出した。躊躇する様子は全くなかった。
「入るか?」
男が傘を軽く持ち上げて、速人の顔を見つめてくる。
「あなたの傘なんですか」
「違うけど。ほら、早く出ようぜ」
手首を掴まれ、速人は引っ張られるがままに外へと出た。外は真っ暗だった。雨は、人間を攻撃する使命を受けているかのように、速人目がけて力強く降ってくる。
「ほら、入れよ」
野郎と相合傘かよ、と思わなくもなかったが、男と同棲している自分が断るのも、おかしい気がした。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
男が差す傘の下に、そっと入る。
「お前の家まで送る」
「え、でも、あなたが遠回りになったら悪いし」
嬉しい申し出だが、一応遠慮した。見ず知らずの人間に、住処を教えるのも少し怖い。
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