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◇
森尾家のリビング、テーブルの前には裕子が一人で座っていた。
箱根への旅行から自宅に戻った日の午後だ。部屋の明かりはつけず、窓から外の日差しが薄く差し込んでいる。
テーブルの上には白い薬袋と、包装シートに入った小さな錠剤があった。
以前、友人の産婦人科医に処方してもらったアフターピルだ。性行為から72時間以内に服用すれば妊娠を防げる。
裕子は手の中の錠剤に目を落とした。そばには水の入ったガラスのコップがある。
昨夜、浩介に何度も精を注がれた後、お腹にチクりと差し込むような痛みがあった。忘れもしない。千絵を妊娠したときにもあった感覚だ。
なんとなく、着床したのではないかという予感があった。子供ができたとすれば男の子に違いない。裕子は勝手にそう思い込んでいた。
だけど、このクスリを飲めば……。
この世に生まれたばかりの命は消える。
夫の真司とアリバイ作りのセックスまでした。そこまでは完璧だった。だが――パイプカットという思いもよらぬ夫からの告白。
今さら妊娠したなんて言えない……。
精管を閉じた夫の子供を孕むはずがない。もし、妊娠したとすれば、それは夫以外の男の子供――浩介の子ということになる。
裕子は自分のお腹を愛おしそうになでた。
男の子……だったよね?……
ずっと欲しかった二人目の子供。それが今、自分の体に宿っている。なのに、今から自らの手で消し去ろうとしている。
真司はパイプカットを元に戻す手術を受けると言ってくれた。妻である自分への欲情を取り戻し、露天風呂では数年ぶりの夫婦の営みができた。
だが、それが今後も続くとは限らない。スワッピングという異常なショック療法が効いただけで、やめれば元に戻る可能性は高い。
またEDになったら……。
もう夫との関係をやり直せる自信が裕子にはなかった。
とはいえ、浩介以外の相手とのスワッピングは考えられない。彼の子供だから、托卵してまで産みたいと思ったのだ。
だけど、志保さんはもうしてくれない……。
夫婦間交際とは距離を置きたいと言っていた。浩介の性格を考えれば、妻に秘密で関係を続けてはくれないだろう。それはただの不倫だからだ。
ずっと森尾の家を継ぐ子が欲しいと願っていた。男の子を産めば、姑の鼻を明かせると。だが、裕子は今になって気づいた。
財産なんてどうでもいい……森尾の家なんて関係ない……男の子でなくてもいい……赤ちゃんを産みたい……。
兄妹の多い家に生まれた裕子は、笑い声のたえない明るい家族を夢見てきた。普通に生きていれば、手に入れられると思っていた。
それがなんと難しい夢か、34歳の裕子は思い知らされていた。
「ううっ……」
嗚咽がこぼれ、テーブルの上に涙がポタポタと落ちた。白い錠剤を手に握りしめたまま、裕子は泣きじゃくった。
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