第四章 シークレット ―妻の友人・裕子―

54/56
前へ
/408ページ
次へ
 ◇  森尾家のリビング、テーブルの前には裕子が一人で座っていた。  箱根への旅行から自宅に戻った日の午後だ。部屋の明かりはつけず、窓から外の日差しが薄く差し込んでいる。  テーブルの上には白い薬袋と、包装シートに入った小さな錠剤があった。  以前、友人の産婦人科医に処方してもらったアフターピルだ。性行為から72時間以内に服用すれば妊娠を防げる。  裕子は手の中の錠剤に目を落とした。そばには水の入ったガラスのコップがある。  昨夜、浩介に何度も精を注がれた後、お腹にチクりと差し込むような痛みがあった。忘れもしない。千絵を妊娠したときにもあった感覚だ。  なんとなく、着床したのではないかという予感があった。子供ができたとすれば男の子に違いない。裕子は勝手にそう思い込んでいた。  だけど、このクスリを飲めば……。  この世に生まれたばかりの命は消える。  夫の真司とアリバイ作りのセックスまでした。そこまでは完璧だった。だが――パイプカットという思いもよらぬ夫からの告白。  今さら妊娠したなんて言えない……。  精管を閉じた夫の子供を孕むはずがない。もし、妊娠したとすれば、それは夫以外の男の子供――浩介の子ということになる。    裕子は自分のお腹を愛おしそうになでた。  男の子……だったよね?……  ずっと欲しかった二人目の子供。それが今、自分の体に宿っている。なのに、今から自らの手で消し去ろうとしている。  真司はパイプカットを元に戻す手術を受けると言ってくれた。妻である自分への欲情を取り戻し、露天風呂では数年ぶりの夫婦の営みができた。  だが、それが今後も続くとは限らない。スワッピングという異常なショック療法が効いただけで、やめれば元に戻る可能性は高い。  またEDになったら……。  もう夫との関係をやり直せる自信が裕子にはなかった。  とはいえ、浩介以外の相手とのスワッピングは考えられない。彼の子供だから、托卵してまで産みたいと思ったのだ。  だけど、志保さんはもうしてくれない……。  夫婦間交際とは距離を置きたいと言っていた。浩介の性格を考えれば、妻に秘密で関係を続けてはくれないだろう。それはただの不倫だからだ。  ずっと森尾の家を継ぐ子が欲しいと願っていた。男の子を産めば、姑の鼻を明かせると。だが、裕子は今になって気づいた。  財産なんてどうでもいい……森尾の家なんて関係ない……男の子でなくてもいい……赤ちゃんを産みたい……。  兄妹の多い家に生まれた裕子は、笑い声のたえない明るい家族を夢見てきた。普通に生きていれば、手に入れられると思っていた。  それがなんと難しい夢か、34歳の裕子は思い知らされていた。 「ううっ……」  嗚咽がこぼれ、テーブルの上に涙がポタポタと落ちた。白い錠剤を手に握りしめたまま、裕子は泣きじゃくった。
/408ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2786人が本棚に入れています
本棚に追加