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リビングの出入り口に人の気配がした。夫の真司が立っていた。二階の書斎から降りてきたのだろう。
目を真っ赤に腫らす妻に困惑の表情を浮かべる。
クスリを隠さなくては――あわてて錠剤を戻そうとしたため、手から箱が滑り落ち、フローリングの床に転がった。
椅子から立ち上がる裕子を手で制し、真司がゆっくり歩を進めた。腰をかがめ、箱に手を伸ばす。パッケージの文字に無言で目を落とした。
「……いちおうと思って……ちゃんと着けてしたんだけど、万が一ってことがあるから……」
アフターピルを服用しようとした理由を言い訳がましく説明する。
「飲まないでいいよ」
裕子が眉間を寄せ、小首をかしげる。
「もしできたら……それでもいいよ」
意味がわからなかった。浩介の子供を孕んだら、その時点で即、離婚するという意味だろうか。何を考えているのか、そのクールな表情からは読み取れない。
「もし子供ができたら……僕たちの子供として育てよう」
裕子は声を失い、立ちつくした。
「君が子供を欲しがっていたのは知っていたよ……それに応えられない僕は、自分が情けなくて、はがゆくて……だから、君がもし妊娠をしていたなら、僕はそれを受け入れるよ」
「で、でも……」
赤ん坊は真司の子ではない。浩介の子だ。
夫が優しげに笑んだ。
「大丈夫。自分の子供だと思って、ちゃんと大事に育てるよ」
本気なのか? 自分の子ではない子を愛せるというのか。
「僕は僕を愛せないけれど……僕以外の人間なら愛する自信はあるよ」
真司が近づき、裕子の腰にそっと手を添えた。
「君にはたくさんつらい思いをさせてきたね……裕子が僕の奥さんで本当によかったと思っている……森尾の家に来てくれてありがとう……」
裕子の目に涙がにじんだ。
夫が嘘を言っていないことはわかった。もし浩介の子を産んだとしても、この人は大切に育ててくれるだろう。娘の千絵と分け隔てなく、愛を注いでくれるだろう。完璧な父親を務めてくれるだろう。
裕子が顔をうつむかせ、ぎゅっとまぶたを閉じた。
沈黙が十秒ほど続いた。
それから顔を上げた。裕子は夫の手から薬の箱を取り返した。包装シートを破って錠剤を手のひらにのせた。テーブルのコップを手に伸ばす。
真司が妻の顔を黙って見つめた。それで本当にいいのか、と訊ねている。
「……これでいいの」
裕子は錠剤を口に含み、グラスの水で喉に流し込んだ。
それから夫の胸にすがりつき、再びすすり泣いた。
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