第五章 インモラル ―年下の恋人―

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 ◇ 「でね、佳恵さんが言うには、年齢を2で割って、7を足せば、男性が付き合いたい女性の年齢になるんだって――ねえ、私の話を聞いてる?」    安藤ちひろがテーブル越しに夫の顔を覗き込む。  夫の祐樹は、左手でスマホをいじりながら 右手で箸を動かし、生姜焼きの豚肉を口に運んでいる。  夜、安藤家の夕食のテーブルでは、祐樹とちひろが向かい合っていた。ちひろの隣には一人息子の健太の姿がある。 「聞いてるよ。2で割って7を足すんだろ?」  言いながら祐樹がスマホを指でタップする。 「……ねえ、食事中ぐらいスマホをやめたら?」  妻の怒気に気づき、祐樹があわててスマホから手を離し、テーブルの隅にどける。 「そう怒るなって。ちゃんと聞いてたよ。ようは、話を聞いているような〝顔〟をしろってことだろ? でも、男の脳は、女と違ってマルチタスクで複数の作業を進められるようにできてるんだよ」  ちひろが不満げに唇を曲げる。  聞いてさえいればいいという問題ではない。そもそも、なぜ妻の話を聞くことが「仕事」なのか。それに、二つ以上の物事を同時に進める能力に性差などない(女子校出身のちひろはジェンダーにもうるさい)。 「……悪かったよ。仕事で急ぎのメールだったんだよ。ええと、俺は28だから……21のコに気をつけろってことか。でも、そんな若いコ、周りにいないぜ」  妻の機嫌をとるように祐樹が言った。 「そろそろ会社にインターンが来る時期でしょ?」 「28の男なんて、大学生からすればオッサンだって」  ふーん、とちひろが目を細める。 「どこのオッサンですかね? インターンの美大生に手を出したのは」  美大在学中、ちひろは大手のウェブ製作会社でインターンとして働いた。そのとき指導係だったのが祐樹だ。  インターン終了後に付き合いが始まり、できちゃった婚(授かり婚)でちひろは一人息子の健太を出産した。就職はせず、そのまま専業主婦になった。  今は、美大で学んだデジタルデザインの知識を活かし、フリーランスでウェブデザインの仕事を請け負ったり、流行りのVtuberの作製なども手掛けている。  稼ぎはそれなりにあり、すでに夫の扶養から外れている。健太の子育てが一段落したら、デザイン会社に求職するつもりだったが、このままフリーで仕事を続けるのも悪くないと思いはじめている。  そうだ、と思い出したように夫が言った。 「来週、地元の友達の結婚式に出ることになりそうなんだ。いつものスーツ、クリーニングに出しといてよ」   「また泊まり?」 「たぶん、そうなるかな」  夫の出身地は北陸だ。今は新幹線で一本とはいえ、地元の友達の結婚式に出席したときは泊まりになることが多い。 「最近、結婚式多くない?」  つい一か月ほど前にもあったばかりだ。 「20代の後半だから、このあたりで一回結婚ブームがあるんだよ。次は30代の前半ぐらいにあるらしいよ。出ていくものが多くて悪いとは思ってるよ。交通費だってかかるし……」  友達の家に泊まるので宿泊費はかからないが、交通費やご祝儀代がかかる。ちひろにそれなりの稼ぎがあるので特に問題があるわけではないが、こう回数が多くては、という気持ちもある。  夫の血液型はO型、誰とでもすぐ友達になってしまう。後輩の面倒見もいいので、よく飲み会にも行く。とにかく、みんなとワイワイやるのが大好きなのだ。  社外の発注元の要望を聞き、社内のプログラマーやデザイナー、大勢の人間をまとめて仕事を進めるWebプロデューサー向きの性格と言えるが、交際費は馬鹿にならなかった。  だが、口に出してはこう言った。 「いいのよ。お父さん、お母さんのところにも顔を出してきてね」  祐樹は姉一人、妹一人の三人兄妹の真ん中だが、いちおう〝長男〟だ。その長男を自分の両親の近くに住まわせている負い目がちひろにはあった。 「でも、ご実家に泊まらなくていいの?」  地元に帰ると、祐樹はいつも〝友達〟の家に泊まり、実家に厄介になることはない。久々に会えた仲間たちと朝まで語り明かしたいというのは、いかにも夫らしい理由だが……。 「いいんだよ。親は姉貴夫婦と同居してるし……ちゃんと顔は出してくるから」  本当に友達の家に泊まっているのだろうか? いや、そもそも結婚式は実在するのか?  昼間、佳恵に言われた言葉がよみがえる。地元の結婚式への出席は怪しめと。浮気相手との不倫旅行の可能性があると。  とはいえ、東京の交友関係ならともかく、地元の友達のこととなると、確かめる方法もない。 「あ、健太。こぼしたぞ」  箸から落ちたお肉が胸元に落ちている。祐樹がティッシュを一枚手にとり、テーブル越しに身を乗り出し、汚れた場所を拭いてやる。  その姿をちひろはじっと見つめる。  姉と妹がいる祐樹は、女性の扱いに慣れていた。チャラそうな外見も含め、昔から女にはモテる。ちひろと付き合っていたときも、セフレが二人いた(きっちり別れさせてから結婚をした)。  ティッシュを足元のゴミ箱に捨て、祐樹が言った。 「そうそう、俺、知らなかったんだけど、ウチの社内にランニングサークルがあるんだって。営業の柴田さんが幹事をやってるらしくてさ。最近、誘われてるんだ」 「でもフットサルは?」  祐樹は中高、大学までサッカーをやっていた。社内の経験者を集め、週末、たまにフットサルをやっていた。 「サッカーはケガが怖いじゃん。結婚して子供ができたやつも増えたから、だんだん集まりも悪くなってきたしな……一人でできるランニングもいいかなって」  ふたたび佳恵の言葉がよみがえる。ランニングサークルは不倫の温床だと。泊まりで地方のマラソン大会に行くと言い出したら怪しめと。 「いいけど……泊まりでマラソン大会に行くとか言わないでよ」  はは、と祐樹は笑った。 「マラソンなんて気が早いよ。でも、たしかにいいな。ハワイとかでやってるんだろ?」  屈託ない夫の笑顔を見ながら、ちひろは箸を動かした。地方での結婚式、ランニングサークル……いみじくも佳恵が昼間、口にしていた浮気の兆候だ。これはただの偶然だろうか?  ちひろは自分の性格を疑い深く、勘が鋭いと思っていた。だから、付き合っている男が浮気をしていたら見破る自信があった。  特に夫の祐樹は、人がいいぶん、脇が甘いところがある。少なくともこの四年の間、浮気はしていなかった――と思う。だが、そろそろ何かあっても不思議ではない。  男とは浮気をするもの、というのがちひろの人生観だった。画廊を経営していた彼女の父親は、やり手だったが、よく家の外に女を作って、母を泣かせた。  幼い頃からそれを見てきたちひろは、男は不潔なもの、などと思いもしなかった代わりに、どこか突き放して男を見る癖がついた。恋愛にどっぷりハマったり、男に依存することはなかった。  佳恵に言われるまでもない。もし夫が浮気をしているなら、徹底的に証拠を集め、きっちり慰謝料を請求するつもりだ。離婚するかはその後に決める(息子と二人で路頭に迷わないよう、稼ぐ力は持っておく)。  女子校時代、芸術鑑賞プログラムで観劇したシェイクスピアの『オセロ』にこんなセリフがあった。  ――俺は疑う前にまず見る。疑う場合には証拠をつかむ。証拠があれば、することは一つしかない。ただちに愛を捨てるか、嫉妬を捨てるかだ――  まあ、でも――とちひろは思った。愛を捨てた上で、夫が一生、頭が上がらない弱みを握って働かせるのも悪くない。
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