第九章 女風ドライバー ―シンママ、男衒になる―

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 ◇ 「シンママになった?……」  ママ友の香坂佳枝が言うと、安藤ちひろが渋い顔でうなずく。 「まあ、シンママっていうか……マンションを出て、子供と実家に戻ったんですけど……」  そばには同じママ友の仁科志保と森尾裕子もいた。子供たちを送迎バスで幼稚園に送り出した後、いつもの立ち話が始まると、ちひろが家を出たことを告白した。  志保が「何かあったの?」と訊ねる。 「旦那の浮気ですよ」 「また? 前もなかった? 会社の同僚の女とマラソン大会にかこつけて地方にお泊まり旅行に行ってたって」 「それはもう終わりました。別のやつです」  フリーデザイナーであるちひろは在宅で仕事を請け負っていた。その日、打ち合わせをするため都内に出かけたが、担当者が日時を誤って伝えていたことがわかり、途中で引き返した。 「夫はしばらく前から在宅勤務をしていたんです。家に帰ったら玄関に女の靴があって……」 「えー!? 家でしてたの?」 「はい、子供が幼稚園に行ってる間に女を連れ込んでたみたいです」 「うわー……」  絵に描いたような修羅場に志保が絶句する。逆にそういったゲスい話題が大好物の香坂佳枝が目を輝かせる。 「で、どうなったのよ?」 「別に……髪をつかみ合って喧嘩とかはしませんよ。女の人にはすぐお帰りいただきました。私は健太を幼稚園に迎えに行って、家を出て、そのまま実家暮らしです」 「ご実家、近くなんだっけ?」  ちひろがうなずく。  マンションは夫の名義だった。居座って夫を追い出すこともできたが、浮気相手を連れ込んでいた家に一秒もいたくなかった。 「これからどうするの?」 「離婚します」  きっぱりとちひろは言った。 「え!? 本当に?」  「もううんざりです。今度何かあったら別れようと思ってました」 「気持ちはわかるけど……小さな子供を抱えてやっていけるの?」  現実的な佳枝らしい心配をした。 「健太はまだ小さいので、出勤してフルタイムで働くのは無理ですけど……もともと自宅で仕事をしていたので……」  美大出のちひろはデザイナーだった。主に3DCGの仕事をフリーで請け負っていた。母子二人ぐらいなら夫の収入をあてにせず、当面は食べていけると思っていた。 「こういうとき手に職を持ってる人はいいわねえ」 「幼稚園は変わりません。皆さんとのお付き合いはこれからも続くので、よろしくお願いします」  ちひろが唇を引き結び、固い顔で言った。 「わかった。私たちはあんたの味方よ。なんでも相談にのるから遠慮せずに頼ってね」  姉御肌の佳枝が言い、志保と祐子もうなずいた。ちひろは「ありがとうございます」とお礼を言った。女同士の連帯は強い。浮気性の亭主よりママ友の方がよっぽど頼りになった。  ◇  午後、ちひろは実家の一室でパソコンに向かっていた。ディスプレイにはCGで描かれたRPG系ゲームの男性キャラクターが映っていた。  一軒家の二階にあるこの部屋は、結婚して家を出るまで彼女が使っていた。物置にされていたが、今は仕事場として使わせてもらっている。  目の前にあるのは重いグラフィック処理もできる高性能PCだ。これがないと仕事にならないので、すぐに宅配業者に引き取りに行ってもらった。  カチカチとマウスをクリックするちひろの脳裏に、浮気相手と遭遇したときの光景がよみがえる。  ベッドに夫と裸で横たわっていた女は、ちひろもよく知っている顔――学生時代からの友人の中辻綾だった。  寝室の出入り口に呆然と立つちひろを見て、綾がため息をついた。 「はー、やっぱり悪いことってできないもんね……」  のろのろとベッドの上で身体を起こし、床に落ちていたショーツに手を伸ばし、足先に通していく。 「……いつから?」  ちひろが静かな声で訊ねた。 「いつから私たちがセフレだったかってこと? あんたと裕樹が結婚する前からよ」  隣にいる夫が困り果てたように頭を抱える。  中辻綾は大学時代からの友人だった。ちひろが職場の先輩である裕樹と付き合い始めたとき、彼氏として綾に紹介した。 「あー、修羅場とかやめてよね。そういうのめんどくさいから。私は嫌だったけど、裕樹が来いっていうから来ただけ。相手の奥さんや子供のいる部屋でヤルとか、私の趣味じゃないから」  淡々と言いながら背中でブラジャーのホックをとめ、ブラウスに腕を通す。 「まあ、あとは二人で話し合ってくれない? 慰謝料とかやめてね。今どきたいした金額とれないから。どうしてもっていうなら親友価格でお願いね」  スカートを履き、バッグを手に部屋を出て行く。ドアの横ですれ違うとき、ちひろがかすれ声で訊ねた。 「……綾、なんで?」  どうして親友の自分を裏切ったのか。 「あんた、ムカつくのよ。いつも可愛い子ぶって要領だけはよくてさ。あんただって人のことを言えないでしょ? 学生の頃、サークルクラッシャーだったじゃない。男たちが自分のことを争っているの、楽しんでたよね」  ふん、と鼻を鳴らし、綾はそばを通り抜けていった。  マウスを握るちひろの視界にディスプレイが戻ってくる。正直、夫に浮気されたことより、親友に裏切られたショックの方が大きかった。 (綾にそんな風に思われていたなんて……)  友達だと思っていた。だから裕樹と付き合い始めたときもちゃんと紹介したのだ。  メールが着信する音がして、思考が途切れた。受信ボックスを開くと、仕事の発注元の担当者からメールが届いていた。 ---------------------------------------------------------------  安藤ちひろ様   データ受け取りました。  いつもすばらしいクオリティですね。  ありがとうございます。  支払いのフォーマットは通常通りで、  来月20日に振り込ませていただきます。  ただ、たいへん申し訳ないのですが、  今回の納品をもって、弊社からの発注は  最後にさせて頂きたいと思っております。 ----------------------------------------------------------------  ちひろの眉根がけげんそうに寄る。机の隅にあったスマホを手を伸ばし、先方の会社に電話をした。 「すいません。安藤と申します。製作三部の笠原さんをお願いできないでしょうか」  保留音が鳴り、やがて「はい、笠原です」と女性の声が聞こえてきた。 「あの――どういうことでしょうか? 今回で終わりって……」 『すいません……』 「クオリティに何か問題があったんでしょうか?」 『いえ、そういうわけではなく……』  相手は口ごもるように続けた。 『会社から経費削減の通達がきて、今後はグロスで安く請け負ってくれるスタジオにお願いすることになったんです。それでフリーの方とはお仕事はしない方針に……すいません』  ちひろがすがるように食い下がる。 「でも一年の長期で発注してくださるというお話でしたよね? それで私、他社の仕事をぜんぶお断りして、そちらだけに絞ったんですよ」 『ほんとに申し訳ありません……私どもとしても当初はそのつもりだったんですが、市場環境が変わりまして……』  ちひろは悔しげに唇を噛んだ。  この業界、仕事を始めるときに紙の契約書を結んだりしない。長期契約もあくまで担当者の口約束に過ぎない。  電話が切れた後、しばらくちひろは放心し、やがて不安が襲ってきた。 (どうしよう……ここの仕事がなくなったら……)  再来月から入金がなくなる。多少の蓄えはあるが、実家を出てアパートに引っ越すにせよ、先立つものはお金だ。 (新しい取引先を開拓するしかない……)  営業はあまり得意ではないが、幼い子供を抱え、立ち止まっている暇はない。  ちひろは気を取り直し、新たに取引先になりそうな会社を検索し、リストにまとめていった。 ------------------------------------------------------ ご担当者様 突然のメール失礼いたします。 フリーでデザイナーをやっている 安藤ちひろと申します。 主に3DCGの仕事をしています。 何かお手伝いできることがないかと思い、 メールを差し上げました。 経歴や実績は添付のPDFに記しました。 そちらをご確認ください。 --------------------------------------------------------  送信ボタンを押し、疲れた息を洩らした。
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