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◇
夕食後、リビングのソファでスマホを見ていた夫が、突然「へー、そうなんだ」とつぶやいた。
やがてカウンターキッチンの向こうにいる麻衣の方に振り返る。
「あのさ、今度の金曜日、仁科さんにウチの風呂を貸しちゃだめかな?」
「え?……」
流し台でお皿を洗う手を止め、麻衣が水道の蛇口を絞る。
「仁科さんの家、浴室をリフォームするんだってさ。志保さんは実家が近いから子供を連れて帰るらしいんだけど、奥さんの実家だから浩介さんはあんまり気が休まらないらしくてさ……」
それでウチの風呂を貸してやろうというのだ。何事にもドライな夫には珍しい。よほど仁科家との付き合いが楽しいらしい。
「でも……」
麻衣が困惑した表情を浮かべる。
「いいじゃないか。キャンプであんなに世話になったんだ。ウチは車まで出してもらったんだし……風呂を少し貸すぐらいいいだろ?」
「うん……」
キャンプのお礼と言われては、麻衣も強く反対できない。
「じゃあ、オーケイだって返事するよ。あ、せっかくだから飯でも食っていってもらおうよ。鍋とかいいんじゃないか」
いつになく積極的な夫を見ながら、麻衣は浩介がウチに来ると考えただけで胸がざわついていた。
夫はキャンプの夜に交わされた自分と浩介の会話――スワッピングの申し出を受け、断ったことを知らない。
あれ以来、隣家の夫とは連絡をとっていないが、麻衣の心の中で浩介がずっと気になる存在だったのは事実だった。
「お、志保さんからもお礼がきた」
うれしそうにスマホを見る夫に、麻衣が醒めた目を向ける。
「仲がいいのね」
口調に皮肉めいた響きがあった。何をしているのか知らないが、最近、夫はスマホを見ながらニヤニヤしていることが多い。
「お隣さんと情報交換してるだけだよ。この前、彼女からいい歯医者を教えてもらったの、麻衣も知ってるだろ?」
スマホに目を落としながら夫が続ける。
「ウチは子供もいないし、ママ友のコミュニティに入ってないから、近所の情報がぜんぜん入らないんだ。彼女のおかげですごく助かってるよ」
言い方がしゃくに障った。子供がいないのは自分たちがレスだからだ。元の原因を無視して、子供を生んでいないことを非難されている気がした。
スマホの文字を追いながら夫が言った。
「へー、志保さんは森尾さんの家のお風呂を借りるかもしれないって……あそこの夫婦ってすごく仲がいいよな。ママ友の繋がりって強いんだな」
(バカね、スワッピング仲間だからよ!……)
そう言いたい気持ちを麻衣はぐっと抑えた。彼女たちは普通のママ友とは違う。自分たちでは想像し得ない、濃い絆で結ばれているのだろう。
(志保さんも志保さんよ……他人の夫と友達みたいに連絡しあって……)
夫と浩介は男同士だから問題ないが、相手が隣家の妻となると妙に落ち着かない。
志保は夫のスワッピング趣味に付き合っているのだ(いや、志保が浩介を付き合わせているのかもしれない)。普通の貞操観でないのは間違いない。
麻衣は疲れたように小さく息をついた。
順風とは言わないが、凪のように穏やかだった夫婦生活に、突然、仁科夫婦という異分子が侵入し、自分も夫もかき乱されていた。
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