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4 霧の中の名前
山の朝は、空気が冷えているせいもあって霧が降りていることが多い。
こっそりと服を着替えて部屋を出ると、朝御飯の支度をしているオーナーと奥さんに挨拶をして、ペンションの扉を開けた。
少しだけ冷える。
ポケットの中で小瓶を握りしめて、道路を挟んだ向かい側にある小さな泉へと足を進めていった。
「あ……」
ぼんやりとしているが、ベンチに座る人影が見える。
一歩一歩近づくも、人違いの不安が過り少しだけ離れた斜め後ろから声をかけた。
「あ、あのっ」
若干上擦った声が、静かな空気を響かせた。
「あの、……十年前の……その」
確認しようにも、肝心な名前を思い出せなかった。
ここまで来て、どう切り出していいかもわからない。
十年前に再会の約束をしたとしか、記憶がない。
口ごもっていると、その人影は立ち上がり私の方を向いて帽子を脱いだ。
「杏子、ちゃん?」
思い出より低めの声が鼓膜を震わせ、呼ばれた事に鼓動が高鳴った。
「あの、ごめんなさい!私、名前を思い出せなくて……名前、何て言うんですか?」
ぎこちなく敬語になる私の手を、彼は掴んだ。
それと同じくして朝日が登り、ゆっくり光が指して彼の顔を照らす。
「あっ、……モカソフトの!!」
ショッピングモールでぶつかった、帽子の男の人だった。
整った顔立ちと優しい目元に、釘付けになってしまった。
「アレン」
「え?」
「名前、僕の」
そのまま、ぎゅっと抱き締められ動揺する私にアレンは続けた。
「思い出せないのも、無理はないよ」
「どういうこと?」
「あの頃、学校で上手くいっていなくて、誰かと関わることを避けていたから……名前でからかわれることも多かったし、だから言わなかった」
「……そうだったんだ……」
旅行先で会った私との時間が楽しかったこと。
名乗らなかった事を、後悔していたこと。
毎年毎年、ここに電話を掛けて奥さんが小瓶のことを忘れていないか確認していたことを教えてくれた。
「なら、奥さんに伝言してくれたら良かったのに」
「いや……だってさ。直接自分の口から言いたかったんだよ」
「えっと、これも?」
小瓶を開けて紙を取り出すと、そこには『僕のお願いを一つ聞いてください』と書かれていた。
それを見たアレンは頬を掻いて、気まずそうに笑う。
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