中秋の名月

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中秋の名月

「ほう、ススキか」 「隣に咲いていたアザミをあしらいに」  オヤジさんは花をはじめ季節を取り入れた変化を見逃すことはない。今より若かった時は空を見上げる時間もない、そんな人だった。自分を取り巻く季節に目がいくようになったのは、それなりの時間を重ねた結果だろう。  もちろんそれだけではない。桜沢が組を仕切り、オヤジさんの出張る機会は少なくなった。だが目を光らせているし、桜沢がダマテンで動くことはない。必ずオヤジさんの言質を取ったうえで仕事をする。  若がこちらへ戻ることはないだろう。今となっては桜沢は組の基盤であり、オヤジさんにとって大事な「息子」だ。 「やけに空が明るいのは満月か」 「ええ、中秋の名月です」 「田倉のおかげで、今はどの時分で何を感じるべきなのかがわかるよ。俺一人じゃこうはいかない」 「オヤジさんが仕事を忘れる時間を作る。それが私の仕事ですから」  オヤジさんは手杓で満たした猪口を口元にもっていきながらニヤリと笑みを浮かべた。男盛り以上の年齢を重ねたが、まだまだ艶のある表情。浮いた話が耳に入ることはないが、それなりの遊びはしているだろう。オヤジさんが本家に持ち込むのは仕事だけだから私は知りようのない色事。いくつになっても艶がある男でいてほしい。私が望むのはそれだけだ。 「お、今日はわらび餅かい」 「ええ。黒蜜ときな粉です」 「どうせ田倉のことだ。これも本物とは違うわらび餅なんだろ?」 「さあ、どうでしょうね」 「まったくスカした野郎だ。でもな、そのおかげで数値は平均値になったし、体も軽くなった。文句ばかり言ってきたが、結果を見る限り感謝しないとな」 「私が好きでやったことです」 「すっかり慣れちまって、本物が欲しいと思わなくなった。これはこれで旨い」  実乃里が買ってきた米焼酎をオヤジさんが飲んだことをきっかけに、私と実乃里は負けじとオヤジさんの生活改善に乗り出した。普通に炊くだけで20%糖質カットになる炊飯器をはじめ、探せば便利な調理器具や食品がある。  最初「俺は牛か馬か!」と文句を言っていたオヤジさんも今では生野菜を食べるようになった。ドレッシングのバリエーションを増やし、野菜のカットを日々変えて食感を楽しんでもらう。  徐々に中性脂肪や糖の数値に変化が現れたことで、オヤジさんのやる気も増した。好きな料理をたらふく食べたいタイプだったが最近は「まずは食べてみよう」に変わり、私も何を食べさせようかと毎日が楽しい。  季節と旬を大事にし、日本の伝統料理を二十四節気とともに味わう。オヤジさんに余裕が生まれた今だからこそ、そんな暮らしを大事にできる。 「なあ、田倉」 「なんですか?」 「桜沢だが……どう考えているのか聞いたことはないか?」 「組の行く末ですか?」  オヤジさんは猪口をあおり静かに言った。 「子供のことだ」 「桜沢が子を持つ気があるか……ということですか?」 「ああ。桜沢の生い立ちを考えると、子供を持つ選択はしないかもしれないと考えてしまってな」 「まあ、そうでしょうね。私も気にはなっておりますが、何分直接聞くわけにもいかず」 「まったくだ。妾を作って実乃里ともめるような男ではない。そこは心配していないが、子供となるとな」  実乃里は私にぴったりついてくる。組のものにも慕われているし、桜沢と大弘会がらみのパーティーをはじめ、シノギの客である富裕層の面々が集う場に顔をだすことも増えた。本家を守る立場としての覚悟と自覚も固まりつつある。 「実乃里は腹を括ったと言っていました。ただ桜沢の踏ん切り……がつかない、そんなことを聞いたことがあります」 「そうか。やはりな」  窓から差し込む月の光に目をやりながら、オヤジさんは一つため息をついた。 「桜沢にとって家族という輪の中に身をおいたことがない。兄弟は皆父親が違うし、家に居場所がなかった。桜沢にとっては権田が「家」だろう。つるんでいる文哉にしても同じようなもんだ。ヤクザの子供だとばれて教師に報復したらしいな。詳しくは知らないが。芳樹も同じだ。権田に来たころからずっと芳樹の姿を見てきた桜沢だ。この環境でまっとうに子供が育つとは思えないだろう」 「それは……そうでしょうが」 「実乃里にしても父親と断絶したままだ。桜沢にとっては権田が「家」だろうが、実乃里にはかつて家族があったが今はない。色々考えると権田がすべて……いや違うな。芳樹を含め俺のやってきたことが他の者にしっぺ返しとなって降りかかっている。そんな気がしてならない」 「オヤジさん。それはあまりに弱すぎませんか?」 「そうだな。弱いか……俺も歳をとったってことだろう」  確固たる地位を築き、昔かたぎの義理を通し続けている。これからの組の行く末に桜沢の存在は絶対に必要。だからこそ、桜沢個人の今後も気になるのだろう。 「オヤジさん。オヤジさんが強制したのは姐さんに対してだけですよ。そのことについて私が何か言える立場ではありません。でも桜沢は自ら望んでここに居ることを選びました。実乃里もそうです。桜沢の生業をわかったうえで嫁になった。そしていま権田をまとめる役を担うために日々精進しています。若だって自らの意思で香港に渡った。文哉さんも権田に入ることなく自らの道を進んでいます。桜沢という片翼を得て。そう考えると各々が自ら権田とともに生きることを選んだ……それは私も同じです」 「……田倉」 「桜沢と実乃里がどういう選択をしても、私はそれを尊重してやることしかできません。もし子供ができた時は心を砕いて接ます。自分が恥ずべき人間ではないことを、望まれて生まれたということを言葉と気持ちで伝えていくしかありません」 「……そうだな」  私は立ち上がりオヤジさんに右手を伸ばした。 「オヤジさん。今晩は中秋の満月。屋根のある所で湿っぽしい話に埋もれている場合ではありません。1年に1度、今日くらいは庭にでて月を眺めましょう。案外、若と皓月も月を見上げているかもしれませんよ」 「皓月なら皆が見上げる月こそが自分だと言っていやがるかもな?」 「そうですね。あれはそういう男です」  オヤジさんが私の手首を掴む。私はオヤジさんを引っ張り立たせた後、庭に向かうために廊下にでた。 「なあ、田倉」 「なんでしょう」 「お前がいてくれてよかったよ。色々な」 「滅相もない。私が好きでやっていることです」  オヤジさんの視線を背中に受けて、背中の傷がチクリと疼いた。私はオヤジさんの力を背中に刻み込んでいる。これを受けた日に私は誓った。もう何度も同じ誓いを立てている――今夜は満月に再び……。 『貴方の傍で生きていきます』 END
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