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 ようやく私たちの役目が終了し、自分のことができる僅かな時間を過ごす。自室へと向かいながら羽織っていたジャケットを脱ぐと白牙さんが咎めるように言った。 「服はここで脱ぐなと言っただろう」  ジャケットの下はシルクのタンクトップ。平らな胸でも下着をつければ見た目は女と変わらない。世の中の女性の大部分は実態を隠しているらしい。アンダーカバーは、潜入のほかに変装の意味もある。女性は自分とは違う女に変装しながら生きているとしたら窮屈な生活だ。 「すいません。着替えてまいります」  Tシャツとラフなコットンパンツに履き替えウエストの紐を絞る。体がほどけたような安堵感。  リビングに行くと白牙さんも同じく着替えを済ませソファに座っていた。テーブルの上には日本酒が置かれている。タクラサンに銘柄を聞き香港フーズに手配させたものだ。寝る前にチョコ(不思議な響きだ)に2杯だけ飲むことに決めた。ふわっとする心地は寝る前に幸せな気持ちになれるから気に入っている。 「昨日の買い物は随分と時間がかかったらしいな。何かあったのかと電話をしたらヨシキ様がでたらしいじゃないか。手が離せないとはいったいどんな買い物だったのだ?」  ちっ、青め。白牙さんに問われたら答えないわけにはいかないだろうから仕方がないのだが。 「言わなくてはいけませんか?」 「状況は把握しておきたい」  ふううと息を吐きだし、許してくださいという表情を浮かべてみたが白牙さんの顔は変わらなかった。当たり前だ、この人が絆される事は絶対にない。 「ヨシキ様が行くと仰ったのです。私はついていくしかなく……やめたほうがいいと何度も言ったのですが」 「何を買ったのだ」 「……下着です」  白牙さんの顔がギリっと強張った。 「何と言った?」  奥歯を噛みしめるように囁かれた問いかけに背筋がすくむ。やはりこの人は銀様の息子だ。 「私が身に着けている下着は不適切だとヨシキ様が。ふつうの奥さんが身に着けるものにしないと変だと。私が手配したのは世の男性が喜ぶというキャッチコピーの通販会社の商品でどちらかというと」 「どちらかというと?」 「ヨシキ様が言うには「セクシーすぎる」と」 「そのように仰ったのか?」  もうしょうがない、腹を括ろう。 「ヨシキ様のお言葉を正確に訳します。『シロさんがTバッグのパンツはいているぐらい拙いチョイスだ』と仰りました」  白牙さんの顔が愕然としたものに変わった。そのあと葛藤をしているような表情に変わり、最後は諦めに変わった。 「それでヨシキ様が選んだと?」 「一度試着をすれば通販で買えるから1回きりだと。『大丈夫、俺、女と下着売り場によく買い物にいったから』……と」 「聞くんじゃなかった」  大きなため息とともに頭を抱えた様子を見ていたら可笑しくて堪らなくなった。白牙さんをこれほど困惑させるとはさすがヨシキ様ではないか。大笑いをする私を見て更に情けない表情に変わる。 「白兄さん!そんな顔を見るのは何年振りでしょうか。そんな情けない顔されなくても!」  なかなか引っ込まない笑いと格闘していると「ふふふ」という笑い声に発作が引っ込む。笑っていた、楽しそうに――昔のように。 「お前が私をそう呼ぶのは久しぶりだな」 「……私はなんと?」 「白兄さんと呼んだ」 「……」 「なあ、閃」  チョコに日本酒を継ぎながら私は止めてくれと心の中で叫んでいた。聞いてはいけない、聞くべきではない。 「私は思うのだ。孤独に生きることを強いられてきた月光様。大龍となってその先になにがあるのかと自問自答し生きる意味を見失っていた。伴侶はもてるが子をなすことはできない。信用のできない側近に囲まれ、狼にすら距離をとっておられた。それが今は違う。我々に言葉で問いかけ、礼を素直に言い、毎日充実して生きてらっしゃる。すべてヨシキ様との出会いが変えたのだよ」「月と……兎」 「そうだ。私は月光様の気持ちがわかると勝手に思っていた、ずっと」 「それは、どのように?」 「主である月光様に従う。白でも黒でも何色でも示されれば頷く。子を作っても必然的に狼として育て、子らに選択権はない。私のように。多くの狼のように。それなのに大部分の狼は月光様に認識されることなく散っていく。そのような群れに我が子を放り込むくらいなら独りでいたほうがずっといい。私のほかにも銀を継ぐものがいるからな。でも最近は考え方が変わった」  この先を聞きたくない、でも聞き返してしまう。 「どのように?」 「月光様とヨシキ様を見ていたら、他と比べてどうだという物差しはあまりに小さく見える」 「物差しですか」 「ああ、男は女といることが幸せか?違うかもしれない。子をもつことが喜びか?他の喜びもあるのではないか?盲目的に従うのと忠誠はまったく違うものではないか?あのお二人と狼と月光様の関係の変化は私を変えた。自分にとっての幸せは他人と違っていいのだと思えるようになった」 「言いたいことはわかります」 「俺も人に言えないことを随分してきた。手が汚れている?ああ、どんなに洗っても消えることはない。成仏には程遠い来世だろう。 閃も自分なりの幸せを見つければいいだけのことだ。悔み続けても未来は見えない。自分の価値を貶めるな、お前は素晴らしい人間だ。それだけは絶対に忘れるな」 「そ、それは」 「閃」 「……はい」 「白兄さんはお前に嘘は言わない、言ったこともない。そしてこれからも言わない。これも絶対に忘れるな」  テーブルの上のチョコがユラユラと滲んでいく。泣くことなんて簡単だった。大根役者よりずっと容易に泣くことができた……でもこれは涙だ。泣こうとして溢れたものではない。勝手に流れ落ちる涙だ。  顔をあげると優しく微笑む顔。 「ヨシキ様と一緒にいるお前はよく笑っている。自分で気が付いていないだろう?変わろうとしているのだ、私も閃も。それに抗するな、委ねろ。お前ならできる」 「はい……それと」 「なんだ?」 「二人きりの時は白兄さんと呼んでもいいです……か?」 「いいに決まっている。せっかくの顔が台無しだ、涙を拭きなさい」  ティッシュの箱が押されて目の前で止まる。変われるだろうか自分を取り戻せるだろうか。閃に……戻れるのか。  心の奥底にしまっていた本音を引き上げる。自分を「僕」と言っていた頃の自分を取り戻したい。『ああ、できるさ』白兄さんの声が聞こえたような気がした。 END
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