逃げた兎

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 今日はツイていない。朝寝坊して朝飯を食い逃したのに始まり、支払いをしてから給料に手をつけろと母親に督促状を投げつけられた。男に振られたばかりのせいでカリカリしていて面倒くさい。厄介になっていた女の家をたたき出されてシブシブ戻った実家は居心地が悪すぎだ。おまけに親子共々振られたあたりが痛すぎる。  浮気された母親は酒をくらって悪態をつく毎日。俺が他の女に手をだして振られたなんてバレたら、今度は母親に叩き出されるだろう。早いとこ次の女を見つけて脱出しなくちゃな。  最悪の一日のスタートをダラダラと始めたあと職場に行ったら配達ルートがいきなり変更された。よりによって渋滞三昧の街中のルートを押し付けられたのは恨みだろう。別に俺が悪いわけじゃない、言い寄ってきたのは女のほうで、女は俺に言わなかった――緒に住んでいる男がいることを。  世間は狭いもので、女の同居人が会社の同僚とは俺の運は最底値だ。  文句を言ってやりたいが、ここで仕事を失うのはもっとつらい。なんだかんだと女が寄ってくる能力を生かしてヒモになる道を行くべきかもな。  渋滞、そしてまた渋滞、割り込み、小競り合い、急発進に進路変更。アメリカの映画に出てくるような砂漠の一本道に憧れる。ただただ真っすぐの広い道。渋滞にイラつくより退屈な一本道のほうが断然マシだ。  ウンザリする車の群れの中を走りながら配達を一つずつ済ませて、また車に乗る。  配達を終えてトラックに戻ろうと見た先の視界には小競り合いする男たちの姿が見えた。俺は何やってんだ!荷台の扉を開けたままじゃないか!  急いでトラックに駆け寄ると、地面にうずくまっていた男が立ち上がり荷台の扉に手をかけた。 「ちょっとまて!おい!さわるんじゃねえ!」  後ろからシャツを思いきり引っ張ると男が振り向いた。尋常じゃない量の鼻血が顎をつたってシャツの前立てに染みていた。頭皮も切れているらしく耳から首にも血が流れ落ちている。こんな奴に荷物を盗られてたまるか!こんなヤバい奴にかかわってクビなんて笑えない冗談だ。首に巻いていたタオルを外し筒状にたたんで二つ折りにしたあと男の鼻めがけて鞭のように打ち付けた。 「ウギャア!!!」  オッサン、その鼻たぶん折れてるぞ。肩から体当たりをくらわしてバランスを崩したところに蹴りを入れる。喧嘩の極意その1―受けたら負ける―先に攻めるべし。  荷台の扉を手早く閉めて運転席に滑り込む。ミラーで見れば小競り合いの人数が増えているらしく見物人の輪ができ始めていた。こういう時はさっさと逃げるのが一番。残りの配達は郊外だから一気に終わらせて何食わぬ顔をして会社に戻ろう。  怪我した場所を攻撃する、やや卑怯な手であっても勝ちは勝ちだ。久々のアクションシーンを演じたことでアドレナリンが体を巡って気分が高揚した。最悪な朝があったからご褒美かもな。  高速道路を南下しながら鼻歌まじりに運転していると前方の車がどんどん迫ってきた。そのスピードで走るなら高速の意味ないでしょう、まったく。追い越そうとミラーで後方を確認するとグングン黒い車が走ってきた。俺もなかなかだけど、飛ばしてるね~いいよ先どうぞ。気持ちスピードを緩めて追い越していくのを待ったが黒い車は並走を始めた。なんだよ、いったい。窓越しに睨み付けてやろうと横をみれば真っ黒のサングラスとスーツの男。ご丁寧に革手袋をして運転している。助手席にも眼光鋭い男が座って俺を見ている。どうみてもカタギじゃない。  前方の車との車間はどんどん詰まっていく一方。いつの間にか真後ろにはケツを煽るようにベタ付きされていた。3台の車に囲まれたトラックの俺。もれなく真っ黒の車とベージュのトラック。気分を高揚させていたアドレナリンはなりを潜めた。  湿った恐怖がジワジワとつま先から這い上ってくる。スピードを上げることも、ましてや落とすこともできない。俺は悟った。映画のカーチェイスは作り物だということを。  こんな状況で隣の車に体当たりをブチかましたり反対車線に飛び出すなんてことはできない。そんなことしたら確実に死んでしまうだろう。
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