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足を止めた若者は、今更ながらに桜の木を見上げた。満開である。先程からずっと満開である。紺色の空を背景に白い桜の花が咲き誇っている。
若者は、まだ幼稚園だった頃の記憶を思い起こした。今は亡き祖父との思い出だ。
花見の宴会で、近所に住む親戚が集まっていたあの日。あの日は珍しく両親も夜更かしを許してくれた。宴会が終わって、親戚たちを見送った帰り道、祖父と二人だけで桜の木の下で満開の桜を見上げた。今と同じように、風が全くない日だった。あの日と同じ香りがした。
「やはりテレビなんかじゃ、わからんもんじゃな」
祖父は目を閉じ、息を大きく吸った後、呟いた。隣の幼かった彼も、祖父の真似をした。
「知らず知らずのうちに、わかったつもりになってしまうのう」
祖父はそう言って、桜を見上げた。
「なんでも現場に来なきゃわからんもんじゃ。この桜の花の香りはテレビではわからんじゃろ」
その頃、祖父はまだ現役で勤めに出ていたが、定年も近づいてきた頃だっただろう。
若者は、頭の中で流れるそんな祖父とのたわいもないシーンを思い出していた。
若者はもう一度、深くゆっくりと息を吸い込み、大きく息を吐いた。風はなく、真っ暗な中を、そのまま桜を見上げながら歩幅を広げ歩き去っていった。
人々に何かを思い出させる役割をもつ樹木、農諺木(のうげんぼく)。
春に咲き誇るサクラもまた農諺木である。
この川沿いのサクラが、若者に思い出させたのだろう。
この花の香りを写真に写しこめないかと、がむしゃらに走っていた5年前の自分自身の姿を。
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