農諺木

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農諺木

農諺木という言葉がある。のうげんぼくと読む。 その昔、まだ新聞やラジオやテレビもなく、ましてやインターネットもなかった大昔。 人は樹木の変化を見て、季節を知った。特に田や畑を耕す者にとっては、コブシの花が白く咲くのを見て、種まきを始める目安としたそうだ。春に咲き誇るサクラもまた農諺木である。 今年も、この川沿いに桜が咲き始めた。 深夜1時。 若者が駅から家へと続く、この川沿いの道を足早に歩いてくる。途切れ途切れの街の灯り。川沿いに建つマンションの数件の部屋からこぼれた灯りがあるくらいで、暗い夜道である。紺色の空に、都会の星が薄っすらと見える。半月が空の低い位置にぼんやりと黄色く輝く。 若者は薄いコートに、重い荷物をリュックに背負い、ただまっすぐに川沿いの桜並木を歩いてくる。ポケットに入れたままのスマートフォンの電池も、残りわずかの赤いサインを示している。 その若者はカメラの専門学校を出て、小さな出版社に勤めている。働き始めて5年。簡単な記事を書いたり、取材のアポイントを取ったり、撮影に必要な備品の買い出しに駆けずり回ったりの気忙しい毎日である。自らカメラのシャッターを切る機会はわずかなものである。 こんなに桜が咲き誇っていることも、さしたる感動も彼には与えない。彼の頭の中は、ただ一刻も早く家の玄関に辿り着き、ベッドで眠りたいということだけで占められているようだ。 明日も朝から企画会議という名の、上司のつまらないご講説を、愛想笑いを浮かべながら聞かなければならない。そんな憂鬱さと日々の疲れが相まって、彼は足元だけを見て、家までの川沿いの暗い道をただまっすぐに歩いている。
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