ー 南風に舞う恋の綿毛が行き着く先は ー

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「教師って肩書とか真面目で優秀な妹っていう見方、そういうもの全部捨てたの。今の私にはもう職も社会的地位も何もない…幸也と同じ。私達、何も変わらない。お互いに何もない者同士だよ」 「俺はこんな事を望んだわけじゃっ」 「わかってる」  幸也の言葉を強引に遮ると、一息ついて沙世は静かに胸を張った。込み上げる熱い想いに声が震えたけれど、語り残さないようしっかりと言葉を紡ぐ。 「オーナーさんに聞いたよ、藤崎先生が来たんでしょ? FAXの件を聞いて、ホストを辞めたんだよね。私に迷惑をかけるから、私を守る為に、唯一の生きる場所だった世界から身を引いてくれたんだよね…幸也の気持ち、嬉しかったよ。だから、今度は私が追いかけようと思ったの」  切なそうにも幸せそうにも見える微笑を顔に滲ませて、幸也が真摯に見つめている。沙世は笑った。笑いながら泣いて、写真ごと幸也の手をそっと握った。 「私は幸也の隣にいたい。どこでもいいの、場所なんて関係ない。地下の暗い部屋だって、畑の真ん中だって、幸也と一緒ならそこが私の居場所…だからもう、お願い…いなくならないで…私を、置いて、いかないで…」  涙で掠れた声が途切れそうになる。それでも渾身の力を振り絞って沙世は喉の奥から押し出した。伝えたい想いを届けるために。 「私は幸也と一緒に生きたい。他に何も望まないから、私の声が聞こえる所にいて…」  淡いオレンジ色の夕陽の中で、切なげに微笑んだ幸也の瞳から涙が零れて頬を伝った。ギュッと握り返してきた手に引っ張られて、前につんのめった体を幸也が胸で受け止めてくれた。背中に回った優しい腕が、苦しいぐらいに強く抱き締めてくる。 「ああ、いるよ…ずっと、沙世の隣にいる…もう離れない。お前を、離さない…!」  温かくて幸せな力強さに浸りながら、沙世はそっと瞼を閉じた。  心地よい温もりが全身に染み込んでくる。  ようやく辿り着いた。  かけがえのない安息の場所。 「そのワンピース、よく似合ってるよ」  耳元で、幸也が囁いた。 「想像してたよりもずっと可愛い。ヤバイな…お前のこと、好き過ぎてヤバイ…この姿、他の男に見せるなよ。お前はもう俺のもの…俺だけのお姫様」  幸也の腕の中で、沙世は密やかに微笑んだ。  この甘やかな声も   魅惑的な腕も  熱っぽい瞳も  ぜんぶ、私だけのもの――― 「――ここ置いとくぞぉ!」   突然、太い声が幸せな余韻に割り込んできた。弾かれたように顔を上げ、沙世は後ろを振り返った。見ると、後ろの方で荷台からキャリーケースを下ろしてくれたおじさんが、ニヤニヤしながら手を振っていた。運転席に乗り込むなりエンジンを蒸かして、来た道をそのままバックで戻ってゆく。 「ありがとうございました!」  遠ざかる軽トラに、沙世は丁寧に一礼した。窓から腕を突き出したおじさんが、親指をグっと立てながら器用に車体を半回転させる。排気口から灰色の煙を吐いた軽トラは、夕焼け色の染まる海に面した坂道を下っていった。ここまで運んでくれた感謝を込めて、沙世がおじさんを見送っていたその時、後ろで幸也が呼びかけてきた。 「沙世」 「うん?」  振り向きざま、柔らかい唇に口を塞がれた。あまりに唐突で、一瞬、沙世は何が起きたかわからなかった。気づいたのは、重なり合た唇から痺れるような熱がじんわり伝わってきてからだ。深くて、頭が溶けそうな程熱いキス。何度も食むように重なる唇が角度を変えて触れるたび、幸也の息遣いが耳朶を掠める。名残惜しげに離れていった唇を追いかけるように見上げた先で、幸也がうっとりと目を細めた。濡れた唇に微笑を刻み、静かに言う。 「なぁ沙世、俺が生き直す為に選んだ場所は、山と海しかないこんな所だけど、それでもいいか?」  沙世は力強く頷いた。 「どこでもいいって言ったでしょ」 「そうだけど…ブドウ畑だぞ?」 「大丈夫。私、ブドウ好きだから」 「俺のことは?」 「愛してる」 「!」    目を見開いた幸也の頬が、赤く色づいて見えるのは夕日の所為だろうか。想定外の返事に驚いて声も出せない幸也を、沙世は涙でいっぱいになった瞳で見つめた。ずっと幸也に伝えたかった一言。つっかえていた想いを届ける事ができて、胸がすっとした。頭上では鮮やかに微笑んだ幸也が、やれやれと言いたげに首を振っている。溜息をついて、呆れ気味に呟いた。 「お前なぁ…それ反則だろ」 「だって、本当のことだもん」  気恥ずかしさに少し肩を竦めて、沙世は小さく笑った。幸也もまた、幸せそうに笑っている。  互いに見つめ合った視線の間を、南からの優しい海風がそっと吹き流れた。              END
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