ー ファースト・ラブ ー

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 対面の真奈美から声をかけられて、沙世は我に返った。どのぐらい幸也を見つめていたんだろう。反射的に顔を向けて、曖昧に返事した。 「ん? あっ、あぁ、うん…」 「…変わらないな、沙世は」  耳朶を、懐かしい声が撫でた。横顔に感じる視線の先へ、沙世はゆっくりと目を向けた。見上げた先には、あの頃と変わらない人懐っこい笑顔があった。10年以上の歳月を重ねても色褪(いろあ)せない、鮮やかな笑顔。そこから滲み出る胸に誘うような男の色気にあてられたのか、カクテルに酔ったのか、今頃になって頬が熱くなってきた。 「元気にしてたか?」 「…うん。幸也も元気そうだね。安心した」 「それだけ?」 「だけって?」 「他に何かねぇのかよ? 例えば、"会いたかった"…とかさ」 「そんなの…」  会いたかったに決まってる。わざわざ言葉にするまでもない。幸也の目からグラスに視線を逃して、沙世はざわつく気持ちを落ち着かせた。この10年、テレビ塔を見る度にいつも幸也を思い出した。あの日何があったのか。どうして突然いなくなったのか。今、どこにいるのか……それを考えない日はなかった。義兄と付き合っている間も、心のどこかにはいつも幸也がいたのだから。だがその想いを告げるげ前に、幸也が苦笑交じりに自分の言葉を取り消した。 「ゴメン、今のは冗談。俺なんかに会いたかったわけないよな…」 「ちがっ、そんなことっ――」 「――それでは皆さん! お時間が来ましたぁ!」  慌てて否定した沙世の声は、対面から威勢よく迸った挨拶に掻き消されて幸也には届かなかった。立ち上がった涼平が、クラス会を締め括るべくスピーチを始めたのだ。 「10年ぶりの再会に盛り上がっているところ恐縮ですが、時間になりましたので1次会はここでお開きにしたいと思います! もちろんこの後は2次会を設定していますので、続きはそちらの方でお楽しみくださいな。では最後に古谷先生! ご挨拶をお願いしまっす!」  気恥ずかしそうに立った元担任の顔は、卒業式後の最後の学活で見せた時と同じだった。テーブルを囲む元教え子達を見回して、感謝の言葉と幸也に会えた感動をスピーチしながらまた泣いていた。  真奈美が大きなお腹を抱え、予め用意していた花束を渡しに上座に向かう。再度贈られた拍手に、元担任が号泣している光景も卒業式と同じ。沙世はそっと幸也の横顔を見上げた。空白の10年の間、自分が幸也を想ってきたように、幸也も自分を忘れずにいてくれただろうか。たった1ヶ月の付き合いだった元彼女の存在を、心の片隅でもいいから残しておいてくれたかな…… 「古谷先生! ありがとうございました! そんじゃ皆で先生を見送るぞ~! 忘れもんするなよ~!」  涼平の音頭に合わせて、周りが一斉に帰り支度を始めた。穂乃果と涼平に急かされて皆と一緒に店の外に出た途端、歩み寄ってきた数人が報道記者並みに幸也を取り囲んだ。担任の見送りそっちのけで、10年分の質問をぶつけている。  にこやかに応じる幸也の背中を、沙世は少しの間、静かに見つめた。幸也の中に自分はもういない。それはわかっている。涼平には連絡を入れたのに、こちらには手紙一枚こなかった。要するに、幸也にとって自分は忙殺される毎日の中に埋もれゆく程度の存在だったということ。別に、ショックを受けたりしない。ただ少し、寂しかっただけ。 「あっ、タクシー来たっすよ! 先生っ、乗って下さい!」  ちょうど創成川通りを流れてきたタクシーを止めて、涼平が先生を丁寧に促した。歩道に漂っていた級友達が集まってくる中、沙世は急ぎ足で路側帯に向かった。 「古谷先生、長い間お疲れさまでした」  タクシーに乗る間際、沙世は元担任に心からの感謝を込めて一礼した。それに笑顔で応じた担任が、花束を抱えたまま言う。 「香坂…ありがとうな。お前も今や文科省のモデル授業者か。大したもんだ、頑張れよ」 「はい」 「でもな香坂、教師が生徒に教えるべき最も大切な事は勉強じゃねぇぞ」 「え?」 「"いつも正直であれ"って事だ。自分の心に、言葉に、行いに、正直であること。見栄を張ったり嘘で誤魔化して生きると、最後は自分を見失っちまうからな」  内心、沙世はギクリとした。自分の犯してきた罪を先生に見透かされたような気がしたのだ。もちろん今のは担任の純粋な贈る言葉だったのだろうけど。 「教師ってぇのは生徒の頭じゃなくて心を育てるもんなんだよ。他者を思いやる心、自分にも他人にも正直である心を育てる、これが教師の仕事ってぇのがオレの自論だったが、もう定年しちまったからな。後はお前に任せる。頼んだぞ、香坂センセイ」  義兄と不倫していた後ろめたさが、先生の温かい励ましのエールをほろ苦いものにする。それでも沙世は微塵の動揺も見せず、冷静に切り返してみせた。 「…はい。先生もお元気で」  くしゃっと頭をひと撫でしてきた元担任は、暖かい笑みを残してタクシーに乗り込んだ。元3年5組の教え子達が見守る中、タクシーに乗り込んだ古谷先生は豪快に泣き笑いながら、でも凄く幸せそうな笑顔で帰っていった。  沙世は歩道に佇んだまま、駅方面へ向かう赤いテールランプを見送った。こんな風に教員人生を終えられたら幸せだと思った。数十年後、自分はどんな定年を迎えるだろう。その時に、祝ってくれる生徒はいるだろうか―――遠い未来に想いを馳せていたら、背後から騒がしい級友達の声が響いてきた。
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