ー ファースト・ラブ ー

11/19
前へ
/66ページ
次へ
「狸小路も随分変わったんだな。昔は飲み屋と老舗ばっかりだったのにさ」 「私も一丁目から歩くの久しぶりなの。本当に雰囲気が違うね。通行人も多いし、外人も増えてびっくり。最近仕事が忙しくて、街に出てくる事なかったからなぁ」 「沙世は今、仕事何してるんだ?」  小路の繋ぎ目にあたる通りの手前、赤信号の横断歩道の前で幸也が立ち止まった。沙世は懐かしいその笑顔を見上げると、少しむず痒い気持ちで答えた。 「中学校で英語の教師してるよ」 「教師? そっか…夢、叶えたんだな。お前ずっと先生になりたいって言ってたもんな」 「幸也は…その…大変だったね」  少し疲れたように幸也が苦笑した。 「ああ、大変だった。お人好しのバカなオヤジがダチの連帯保証人になった所為で、1円も借りてねぇのに5千万も借金背負う羽目になったんだ。笑えるだろ?」 「5千万!?」 「母親も俺も、バカオヤジの所為で人生が大きく狂っちまった…18歳のガキにはキツイ現実だったけど、仕方ないんだって受け入れたよ。そうやって生きる方が、楽だったから」  話しぶりこそ穏やかで、宝くじがハズレてしまったと言うぐらい軽いノリだが、幸也の笑顔には社会の底に沈殿する闇のような、暗い(かげ)りがひっそりと滲んでいた。沙世はかける言葉が見当たらなかった。幸也もまた税理士になりたいという夢があり、大学受験の勉強を頑張っていたのを知っているだけに、父親の借金で将来を閉ざされた事が痛ましい。  とは言え、今更何を言ったところで慰めにもならないだろう。たぶん、どんな言葉をかけても幸也を傷つけてしまう。そう思って、沙世はさり気なく話題を変えた。 「でも、今日こうやってまた幸也と会えて良かった。皆もそうだと思う。朝のホームルームでいきなり幸也が退学したっ聞いて、皆凄く心配したんだよ」 「沙世は?」 「ん?」  横を見上げた瞬間、視界に幸也の真剣な顔が飛び込んできた。綺麗に整った眉の下、切れ長の瞳が少し寂しげに揺れている。思わず沙世は緊張で背中を強張らせた。幸也がうなじに手を伸ばしてきたのだ。大きな手で肩に掛かった髪をそっと払い、そのまま頭をひと撫ですると、まるで恋人の愛情を確かめるような物言いで問いかけてくる。 「お前は俺の事、心配してくれたか?」  沙世は声を詰まらせた。これは単なるスキンシップなのだと頭では理解していても、つい体が反応してしまった。幸也の動作に深い意味なんてないのに、あの頃感じたトキメキごと記憶がぶり返して顔が熱くなる。それでもどうにか冷静を装って、沙世はぎくしゃくと笑った。 「あ、当たり前でしょ。心配したに決まってるじゃない」 「…だよな。心配して、傷ついて、泣いて、立ち直ったふりして高校卒業したんだよな…全部、後から涼平に聞いたよ」  隣で微笑んだ幸也の笑顔は、どこか苦しげだった。物言いは穏やかだが、言葉の端々に強い後悔の念が感じられる。 「お前にしてみたら、今更なんだって話だよな。ある日突然いなくなっといて、今度は10年ぶりに現れて、身勝手にも程があるよな…自分でもそう思うよ。けど…頼む。俺にちゃんと謝らせてくれ」  謝らなくていい。沙世はそう伝えようとしたけれど、一呼吸分だけ遅かった。声を出すより早く、幸也が真剣な顔で途切れた言葉の先を継いだ。 「遅くなったけど、あの日、待ち合わせの場所に行けなくてごめん。何も言わずに消えて、本当に悪かった。許してもらおうとは思ってないよ。お前の気持ちを考えたら、許してくれなんて言えるわけない。恨まれても…」 「私にとっては全部大事な思い出だよ」  息するのと同じくらい自然に言葉が出た。決して気の利いた慰めなんかじゃない。あの悲しい初デートでさえ、この10年、幸也の記憶の一部として大切にしてきたのだ。沙世は隣で表情を硬くしている幸也に微笑みかけると、10年分の想いを言葉に込めた。 「退学を知らされた時の悲しさも、幸也がいない寂しさも、私にとっては全てが大事な思い出だから、そう思ってきたから、幸也が謝る必要なんてないよ。だからもう自分を責めないで」 「…変わらねぇな、沙世は…」
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

59人が本棚に入れています
本棚に追加