ー ファースト・ラブ ー

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 静かに呟いて、幸也はまるで眩しいものを見るように瞳を細めた。 「お前はホント…変わってないよ…」 「幸也は少し変わったね」 「そうか?」 「うん。なんていうか…」 「チャラくなった?」  自分の言葉に笑いながら幸也が言う。 「まぁ、夜の仕事してきたからそういう雰囲気が染みついてんのかも。沙世の方は昔のままだな。相変わらず優しくて、純粋で、泣き虫で…」  ふと声が止んだ次の瞬間、幸也が耳元で囁いた。 「すごく綺麗だ」 「!」  心臓が跳ね上がった反動で、沙世は体をビクつかせた。咄嗟に振り向いた途端、間近に迫った幸也の瞳と重なる。研ぎ澄まされたように鋭く、それでいてどこか寂しげな気配が漂う綺麗な目。まだ好意を持たれてるんじゃないかと勘違いしそうになる。でも、何かを求めるような幸也の瞳が高3の自分を見ているのだと、沙世はすぐに気がついた。反射的に幸也から顔を逸らして、青信号に変わった歩道を渡った。  心臓が早い脈を打っているのは決してトキめいたからじゃない。胸の奥底に秘密を隠している後ろめたさが、心を揺さぶっているのだ。姉の夫と体の関係を持っていた罪。高校生の時の清純さなど、とっくに失ってしまっている。義兄と不倫をしていたなんて、幸也は夢にも思わないだろう。  幸也には、知られたくなかった。あの頃のキレイな少女のまま、記憶に残しておいて欲しかった。何食わぬ顔で姉の夫と2年間も肉体関係を続けた汚れを、心身の(けが)れを、幸也に見せたくなくて、視線から逃げるように顔を背けたまま沙世はムリヤリ笑って誤魔化した。 「ちょっとぉ、私で遊ばないでよ」 「俺は真面目に言ってるんだけど?」  あと1丁目分距離が長かったら、ボロが出ていたかもしれない。幸也が再び顔を覗き込んできたところでようやく、駅前通りの前に出た。札幌JR駅から36号線まで一直線に伸びる片側3車線の道路に向かい、左はススキノへ、右は札幌駅へ繋がっている。 「もう着いたのか…早いな」 「喋ってたからあっという間だったね」  アーケードを抜けた途端、夜風が体をふわりと撫でた。失われた時間を取り戻すにはあまりにも短い道のり。別れる物寂しさが胸を揺さぶってくる。それでも沙世は取り乱す事なく幸也を見上げた。名残惜しさを胸の底に押し込めて、笑顔で10年ぶりの再会を締め括る。 「じゃあ私、汽車で帰るから。幸也は仕事でしょ?」 「え? あぁ、そう仕事」 「体、壊さないようにね。お互いに、もういい年だから」 「ハハっ、そうだな。沙世も……元気で」 「うん……じゃあね…」  それ以上、言葉が出てこなかった。沙世は体を(ひるがえ)した。長らく引きずった想いと決別するかのように、佇む幸也に背を向けた。遥か遠くに眩く光る札幌駅を見据えて、ゆっくりと歩き始める。胸の内に小さな痛みと温かさを感じながら、沙世がその場を離れかけたとき――― 「――沙世っ、待って!」 「わっ!?」    腕を掴んできた力強い手に引き止められた。沙世が振り返りざまに見上げた先で、幸也は何か言いたそうに唇を震わせている。 「やっ…あのっ…お前さえ良ければ、今度…その…メシでも一緒にどう…かな」  ぎこちない物言いで訴えながら、幸也が困ったように笑う。 「できればまた…なんつーか…友達として…付き合いができたらいいなって…あっ、悪いっ」  結構な力で掴んでいた事に気づいたのか、幸也はサッと手を離した。ほんの少しの間、伏せ目がちに口を噤んでいたが、幸也は何かに挑むように深く息をつくと顔を綻ばせた。夜風に揺れる茶髪の下に、階段の踊り場で告白してきた時と同じ、気恥ずかしげな微笑が広がっている。 「お前とこうしてまた会えて、スゲェ嬉しいよ。あんな終わり方したからさ、本当は今日、お前に会うのが少し怖かったんだ。けど、お前に許してもらえて正直ほっとしてる。俺を忘れずにいてくれた事に、ほっとしてる…お前の都合のいい時で構わないから、電話くれ。ホントに、いつでもいいから。ずっと待ってるから」  じっと見つめる幸也の瞳は、まるで心情を物語るように小さく震えていた。高3の告白の時と同じ顔。沙世は込み上げてくる涙をぐっと飲み込んだ。幸也の想いに応えたくて、必死に笑顔を作って頷いた。 「…わかったよ。電話するね」  頭上で、幸也が安堵したように笑みを深めた。急いでスマホを取り出しながら言う。
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