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外にいるのか、スピーカーの奥からは涼平の声に混じって車が何台も走る音がする。表情こそ見えないけれど、涼平が何か急いでいる事だけは声からも十分に伝わって来た。
『あのさ、いきなりなんだけどおサヨ、今夜空いてる? ちょっと付き合って欲しい所があるんだよ』
「ごめん、今夜はムリ。用事があるの」
沙世は即答した。今日は前々から藤崎と食事に行く約束をしている。相手もこちらの返事を想定していたようで、特別気にしたふうもなくさらりと流した。
『そっか。じゃあ、いつならいい? 明後日は? できるだけ早い方がいいな』
「いつって言われても…当分ムリかなぁ」
『忙しいのはわかってる。けどそこを何とか頼む! な? ちょっとの間でいいんだ、俺に時間くれないか』
「急にどしたの? 付き合って欲しい所ってどこさ?」
『それは…えっと…まぁ、会ってから話すよ』
なんとも歯切れの返事だった。まるで考える暇を与えまいとするように、涼平が一気にまくし立てた。
『オレ、今週末から出張で神戸に行くんだよ。できればその前に済ませたいんだ。なぁ、おサヨの今夜の用事って何? 仕事か?』
「違うよ。同僚とご飯…」
『よし! ならその同僚も一緒に連れてこいよ!』
「はあ!? ちょっと待って! 勝手に決めないでよっ」
『メシの約束って何時にしてんの?』
「ビッセ前に7時…」
『オッケィ! だったら6時に待ち合わせよう。ホント30分ぐらいでパパっと終わらせっから! これならメシにも間に合うだろ?』
「ムリ!」
『なぁ~おサヨ~、頼むって! このとーり!』
携帯を持っているのにどうやって合掌したんだろう。スピーカーの奥から、パンっと手を合わせる音が聞こえてきた。こういう強引な所、本当に変わってない。しかも答え終わらないうち、涼平は勝手に了解した事にしている。
『今夜はオレがおごるから! じゃ、今夜6時にラフィラの前で待ち合わせな! ではでは~!』
「あッ、ちょッ、涼平!」
最悪だ。既に涼平は電話を切ってしまっている。沙世は黒い画面を恨めしく睨んだ。
「こ、香坂先生…?」
よっぽど怖い顔だったのか、隣から声をかけてきた藤崎の目は、どこか怯えたように揺れていた。
「同僚って男かよ…」
駅前通りと国道が交わるススキノ交差点。歓楽街の玄関とも言うべき南4条のデパート前で顔を合わせるや、涼平がげんなりと呟いた。一緒に来た藤崎に対しては一応、ビジネスマンらしく営業用の笑顔で自己紹介していたが、ボソっと耳打ちしてきた声には明らかに不機嫌な気配が滲んでいる。
「おいっ、男連れて来るなら先に言ってくれよっ」
「なんで?」
「なんでってそりゃ…あっ、まさかそのイケメンっ、お前の彼氏じゃないよな!?」
「職場の先輩だってば。それより、涼平が付き合って欲しい場所ってどこ?」
「それはっ…まぁ、来ればわかるって」
ポンと肩を叩いて勝手に会話を打ち切ると、涼平はその話題から逃げるように藤崎の元に歩み寄った。さすがは営業職。適度な礼儀と親しみやすさで話しかけながら、目的地へと案内する。
「いや~、今日は急にすいません。店はこっちです。えっと、藤崎先生…でしたっけ? 一杯だけ付き合って下さい。先生は酒とか大丈夫っすか? 」
「はい、強い方です。それと、ただの藤崎で結構ですよ」
「――本当にすいません、藤崎先生」
藤崎の柔軟な対応に恐縮しながら、沙世は快くついてきてくれた先輩教師に詫びた。勝手に予定を差し込んできた涼平を視界の端で睨みつつ、丁寧に頭を下げる。
「私の友人がムリを言って申し訳ありません…お店の予約時間には間に合わせますから」
「大丈夫ですよ、念のために1時間予約を遅らせたんでご心配なく。じゃ、行きましょうか」
爽やかな笑顔で応じてくれた藤崎に促され、沙世は肩身を小さくしながら夜の街を歩き始めた。涼平と藤崎が世間話で盛り上がっている傍ら、対面から来る通行人を避けつつ周囲を見回すと、日本最北の大歓楽街・札幌ススキノの華やかな夜の顔がみえてくる。
ススキノ方面にはあまり来ないが、噂で聞く通り、以前にも増してコアな趣向の飲食店が増えていた。パクチー専門店からオネェ系カフェまでマニアックな店が並び、夜の華やかさに彩を添えている。もっとも今は"普通じゃない"のが普通の時代。初音ミクの格好をした若い男子がカラオケの割引券を配っていたって、それほど驚きもしない。
だが程なくして到着した店に入った瞬間、沙世は驚きのあまりポカンと口を開けたまま硬直した。西6条ビルの地下1階。重厚な黒い観音扉を開けたそこは、どこにでもある普通の飲食店ではなかった。
「3名様ご来店!」
―――いらっしゃいませ!!!
若い金髪の男性スタッフが出迎えた直後、店の奥から活気のいい挨拶が飛んできた。黒と金を基調とした高級感のあるオシャレな店内は、ノリのいい洋楽と高貴で甘やかな香りが漂っている。奥には豪華な調度品と花で装飾された巨大な鏡とステージがあり、一際大きい半円形の黒いソファ席が設けられていた。
ステージに向かって右側、無数の酒瓶とグラスを収めた壁とテーブルカウンターの狭間では、2人のバーテンダーが忙しそうに動き回っている。そこから奥の廊下はスタッフオンリーらしい。一方、左側にはVIPと書かれたドアがあった。そこに面する店内には十数のソファ席が規則的に配置され、入り口の受付から真っすぐに伸びる中央通路を挟むように並んでいる。
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