ー きっと忘れない ー

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 告白は、自分からした。もちろん義兄(あに)の気持ちは知っていた。妻の妹を好きになった事と、妻の浮気と、両方に悩んでいた義兄(あに)の心の隙間につけ込んだのだ。そこから始まった男女の関係は、姉と離婚してからも途切れていない。もちろん、いつまでも初恋を一途に引きずっているような妹と、真面目しか取り柄のない夫が不倫してるなんて、姉は夢にも思っていないだろう。  姉と別れた彼は今日、海外へ赴任する。  一緒に来て欲しいと言ってくれた。シアトルで一緒に新しい生活を始めようと。そのつもりだった。姉の元夫と添い遂げる代償に、家族と仕事を捨てる覚悟をしたはずだった。    なのに、ここから動けないのはなんでかな…… 「――あの、お客さま…」  不意に、遠慮がちな声が降ってきた。沙世はハっと顔を上げた。見上げた先では中年の駅員が、訝しげな表情で様子を(うかが)っている。 「お客さま、こちらにずっと座っておられますが、具合でも悪いんですか?」 「あ…いえ、大丈夫です」 「そうですか。ご乗車予定の車両は?」 「えっと…空港行きの快速です」  電光掲示板をチラリと見た駅員の表情が、更に険しくなる。 「ここでお客さまをお見掛けしてから既に6本通過しましたが、乗らないんですか?」  駅職員としては当然の質問だろう。ホームで長時間ベンチに座っている女なんて、不審者以外の何者でもない。まして大きなキャリーケースを隣に置いていれば尚更。口調こそ丁寧だが、見下ろす駅員の目には疑念と不信感が滲んでいる。  沙世は返事に困った。"乗る"と言えば、だったらどうして乗車しないのか(たず)ねられる。そう()かれても、まだ返すべき正確な答えを見出せない。何て言えばいいのかわからないまま、ほぼ反射的に沙世は頭に浮かんだ言葉を口にした。 「…次のに、乗ります…」  寒さの所為か、絞り出した声は震えていた。そう答えるのが精一杯だった。沙世は伏目がちに手元を見つめていたが、納得したのか、駅員はそれ以上追求してこなかった。ただ事務的な相槌を打っただけ。 「次の到着は16時27分です」  それだけ言うと、駅員はホームの奥に歩いて行った。沙世は溜息をついた。本当に、何をやってるんだろう。気怠げに周囲を見渡せば、改札から上がってきた乗客達がまたホームに溜まっている。  2面4線のホームを有する高架駅。1・2番線を函館本線、3・4番線を札沼線が使用する線路別配置の駅の壁には、歯科医院、不動産屋、日本ハムファイターズの広告が掛けられている。毎日通勤に利用している駅の、見慣れた景色だった。なのに今は初めて訪れた場所のように感じる。  壁際の4番線に、旭川行きの特急が入ってきた。同時に、冷えた風が波のようにベンチまで流れ込んでくる。沙世は両腕を抱き締めるようにして、冷えた体を手でさすった。朝から鉄の風に晒された体は完全に冷え切っていた。かじかんだ手を擦り合わせて、沙世がハァっと息を吹きかけたところで再び、電光掲示板に到着予定の汽車の名前と時間が表示された。  16時27分発、新千歳空港行き、快速エアポート。  掲示板を見つめながら、沙世は唇を噛み締めた。彼の元へ向かう最終列車。次こそは乗らないと。焦りにも似た気持ちに流されるまま、沙世はカバンから航空チケットを取り出した。  17時55分・新千歳発・シアトル行きの片道切符。彼も同じ物を持って、空港のロビーで待っている。 きっと、中々見えない待ち人の姿を不安な気持ちで探しているに違いない。 彼の気持ちが、沙世には痛い程よくわかっていた。忘れられない、学生の頃の幸せで残酷な思い出。あの日、初恋の同級生と初デートの日、待ち合わせの場所で彼の姿を人混みの中に探していたあの時の自分と、今、彼は同じ気持ちだと思う。  だから、迎える結末まで初恋と同じにしたくなかった。  何度も時計を見ては、待ち合わせ時間を過ぎても来ない事に、寝坊とか忘れ物とか勝手に理由をこじつけた。そうやって不安を誤魔化して、きっと来るとひたすら信じて待ったが、結局あの人は来なかった。消えてしまったのだ。目の前から。シャボン玉が割れたみたいに突然、あの人はいなくなった。  そんな悲しい初恋と、この恋を同じ結末にしたくない。汽車に乗ればいいだけだ。沙世は胸の中に渦巻く未練を心の底に押し込めると、航空チケットを乱暴にカバンにしまった。
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