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「俺の番号教えたのに連絡くれないのは、会いたくないって事だろ? まぁ、それも当然か…」
「違うっ、そうじゃないのっ。私ただっ」
「――香坂先生っ」
沙世の言葉は、突然割って入った藤崎の呼び声に妨げられた。いつも沈着冷静な数学教師の緊迫した表情から、何かあったのだと沙世もすぐにわかった。
「藤崎先生…どうしました?」
「実は教頭からの連絡だったんですが、うちのレオとショウキが高校生とトラブル起こして、中央警察署にいるっていうんですよ」
「え!? レオとショウキっ…補導されたんですか!?」
藤崎は首を横に振った。保護者に連絡を取ろうとしているのか、携帯を操作しながら慌ただしく帰り支度をしている。
「詳しい事はわかりません。あいつら、寄り道しないで帰れって言ったのにゲームセンターで遊んでたみたいなんですよ。とにかく保護者が来るまで対応しなきゃならないんで、オレ行きます。今夜の食事はキャンセルさせて下さい。本当にすいません」
「私の事は気にしないで下さい」
持参した紙袋とカバンを持つと、藤崎は財布から札を一枚引き抜いた。席についているホストに硬い視線を置いて、丁寧に声をかけた。
「代金は1万あれば足りますか?オレ、こういう店は初めてで料金システムとかわからないもんですから」
「金は結構ですよ。俺が持ちますので」
立ち上がった幸也を、藤崎はじっと見つめた。互いに言葉はなく、視線と視線で何やら語り合っているようにも見える。なんだろう。沙世はさっきと同じ異様な気配を感じて、訝しげに2人を見やった。幸也も藤崎も、共に浮かべる笑顔は硬く冷たい。数秒の重たい沈黙の後、先に口を開いたのは藤崎だった。軽く会釈すると、丁重に礼を言った。
「そうですか。ではお言葉に甘えます…香坂先生」
ホストと対峙していた藤崎の視線が、ソファへ滑り落ちてきた。それまで硬質だった眼差しに、いつもの温かみが戻る。
「すいません、じゃあオレ行きますね。加瀬さんにもお詫びしておいて下さい」
「友人の事はお気遣いなく。お疲れさまでした」
ホストに軽く会釈すると、藤崎は足早に店を後にした。沙世は重たい息をついた。課外活動後の事故案件は処理が大変なのだ。警察が絡んだ場合、ほとんどの親が学校の責任だと言ってくる。担任の帰宅指導は適切だったのか。生徒が寄り道しない為の巡回活動はしたのか等々、激しく突っ込まれる。とはいえ、D組の保護者と藤崎はしっかりした信頼関係があるので、大事にはならないだろう。
「…沙世はあーゆーのがタイプ?」
考え耽っていたところに声を掛けられて、沙世はハっとした。
「ゴメン、なに?」
「だから、あーゆー"さわやかな年上の頼れる男"が好みなのかって」
隣に座り直した幸也が、入り口を顎でしゃくる。苦笑いしながら、沙世は幸也の勘違いを正した。
「藤崎先生は職場の同僚だって。好きっていうより尊敬してる。生徒対応も授業展開も上手で、お手本にしてる人だよ」
「でも2人でメシの約束してたんだろ?」
「ご飯ぐらい一緒に行ったりするっしょ」
「俺とは?」
ソファの背もたれに片腕を置いて、そっと顔を近づけた幸也が耳元で囁いた。
「俺とはもう、2人で会いたくない?」
沙世はビクリと体を強張らせた。まただ。また心がざわつく。胸の内側がサワサワとくすぐったくって、そのクセじんわりと熱い。年甲斐もなく、告白されていると勘違いしてしまいそうになる。そんな胸の内を見透かされないよう笑顔で誤魔化して、沙世はゆっくりと視線を幸也に滑らせた。
「これもホストの営業トーク?」
「違うって言ったら、お前はどうする? 会ってくれるのか?」
思った以上に幸也との距離は近かった。あと数センチずれていたら、唇に触れてしまったかもしれない。沙世は鼻がぶつかりそうな程近い距離で、幸也の顔を見つめたまま硬直した。対峙する幸也はもう笑ってない。真剣な目で、答えを待っている。
沙世は激しく脈打つ鼓動が幸也に聞こえているんじゃないかと怖かった。いい大人のくせに、勘違いしている痛い女だと思われなくなかった。幸也の瞳に、今の自分はどう映っているんだろう。他の女性客にもこうして、幸也は甘いセリフを囁いているんだろうか…
「――失礼します」
背後から突然、低い声が割り込んできた。若いホストが幸也を呼びに来たのだ。天の助けとばかり沙世は顔を逸らすと、隣で小さく舌打ちした幸也を見ないままグラスを手に取った。カラカラになった喉を、冷たい水割りで一気に潤す。
「リュウマか、なんだよ」
「ジンさん、そろそろ他にも顔出してもらっていいっスか。皆けっこう痺れ切らしてて…」
「もう少し焦らしとけ」
幸也の返事は素っ気なかった。むしろ冷たくすらある。他のテーブルで別のホストを横に置いている女性客達を冷めた目で見渡すと、半分ぐらい減ったグラスに水とウイスキーを注ぎ足した。
「今はここのテーブルを優先する。クレハにはヒロトが付いてるだろ? とりあえず空いてるヤツもう1人ヘルプに入れろ。あと、タカネは今空いてるか?」
「はい、大丈夫です」
「だったらナナにタカネを付けろ。そのうち誰かが1本入れるだろうから準備だけしておけ。今夜は最低でもゼブラ3本は開けるぞ。いいな」
「わかりました」
一礼して店の奥に向かった若いホストを眺めながら、沙世は何気なく問うた。
「幸也、行かなくていいの? 私なら放置してくれて大丈夫だよ?」
「いいんだ。今はお前と一緒にいたい」
「――あれぇ? イケメンの同僚はどこ行った?」
幸也の語尾に被ったのは、長いトイレから戻って来た涼平の声だった。藤崎の席にどっかり腰を下ろして、店の入り口を見ながら首を伸ばした。
「藤崎さん、まだ電話してんの?」
「あっ、藤崎先生なら急用ができて帰ったの。涼平によろしくって」
「そっか。そんじゃ改めて、3人でクラス会パート2やりますか」
いつもの調子で涼平が音頭を取ったそのとき、
「――すいませんっ、ジンさんっ」
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