ー 揺れる想い ー

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ー 揺れる想い ー

 初めてのキスは、口紅の味がした。  "リトル・東京" "眠らない街" "北の大歓楽街"―――数多の呼び名を持つ札幌の夜の街は、歌舞伎町とそう大差はない。強いて言えば、札幌の方が街並みは綺麗だ。歩道や道路にゴミはなく、街路樹が立ち並ぶ通りも清掃されている。夜の帳が降りる頃に目を覚ますススキノは今夜も無数のネオンが輝き、真昼のように明るく夜の街を照らしていた。  待ち合わせのF45ビルの前で、幸也は夜の空を仰ぎ見た。ホストという仕事を始めて、もう何年になるだろう。父親の借金を返す為、独り東京に出たのは19歳の冬だった。東京に出たものの、行く当ても金もない子供に東京は冷たかった。歌舞伎町の伝説的ホストだった竜聖(りゅうせい)に拾ってもらわなかったら、今頃、自分はどうしていただろうか。  偶然にも同じ札幌出身で、境遇も似ていた所為か、竜聖は何かと面倒を見てくれた。住家も仕事も全て、竜聖が与えてくれたもの。一回りも年上の兄貴分で情に厚い人だが、仕事には厳しくホストのイロハを一から叩きこまれた。  女はキャッシュ、酒と言葉で酔わせてなんぼ。  これがホストの世界の常識だ。本当は、酒も女も好きじゃない。むせ返る程の香水の匂いと媚びる自分に今でも時々吐き気がする。けれどそうやって生きるしかなかった。父親の莫大な借金を返す為には、将来を捨てて、自分を殺して生きる他に道はなかったから。この世界に身を置いて10年以上が経つ。その間もずっと心を占めていたのは、たった一人だけ。  幸也はスーツの内ポケットに入れたプライベート用の携帯を取り出した。画面をチェックするが、今日も着信はない。自然と溜息が漏れる。電話を内ポケットに深くしまい込むと、幸也は国道を流れる車の波をぼんやりと眺めた。  1ヶ月ぐらい前だろうか。いつもはタクシーで朝帰りするところを、あの朝はなんとなくJRを使った。  早朝のプラットホーム。線路を挟んで対面の2番線のベンチに、女がポツンと座っていた。大きなキャリーケースを置いて汽車を待ってる姿は儚げだったが、しかし大きな困難に挑もうとするかのような力強さが感じられ、野に咲く一輪の花みたいに凛とした清澄さが漂うその美しさに、思わず目を引かれた。その姿はずっと想像してきた、テレビ塔の下で待ち惚けをさせた大切な人の姿と重なって見えたのだ。  あの日、沙世はどんな想いで自分を待っていたんだろう。突然の退学を知らされて、どれほど驚き、傷ついただろうか。涼平から元気な様子を聞く度に会いたくなって、声が聞きたくなって堪らなかった。  連絡しよと思えばできたのにそうしなかったのは、沙世を困らせたくなかったからだ。失踪した彼氏からの電話なんて迷惑なだけだ。黙っていなくなったくせに今更何の用だと、沙世に拒絶されるかもしれない。そう思うと怖かった。きっと、恨まれてるに違いない。沙世とって自分はもう過去の苦い思い出。それでいいと納得していたはずなのに… 「…沙世…」  まさか、あの朝ホームのベンチに座っていたのが沙世だとは夢にも思わなかった。  出勤するのに2番線に上がった時、朝見た女がまだホームにいた事に驚いた。何か訳ありな様子で発車した汽車を眺める背中は小さく、その肩は小刻みに震えていて、思わず声をかけてしまった。別に、どうこうしようと思ったわけじゃない。単に話を聞き、元気出せよと言って別れるつもりだった。  たったそれだけの軽い気持ちで声をかけたのに、それがあろう事か夢でしか会えなかったあの沙世だったなんて、一瞬目眩がしたぐらいの襲撃だった。あまりに唐突な再会で身動きできず、足早に立ち去った沙世を呆然と見送ってしまった。  奇跡とすら言える偶然の再会だったのに、何もできずチャンスを棒に振ってしまってどれ程後悔しただろう。居ても立ってもいられず何度も駅に行っては沙世を探したが、結局あれ以来会う事はできなかった。だからこそ、クラス会に最後の望みをかけた。涼平に頼み込んで、欠席予定の沙世を半ば強引に連れてきてもらったのだ。どうしても、会いたくて。  やっぱり、沙世は綺麗だった。  必死に平静を装ったけれど、隣に座っただけで胸が高鳴った。東京で煌びやかな美人を腐る程見てきたが、沙世の純朴な美貌に比べたらどの女もマネキンと同じだ。  幸い沙世は自然に接してくれて、失踪の件も事情を知って理解してくれたようだが、正直、緊張し過ぎて自分がどう振る舞ったのか覚えてない。とにかくあの時は沙世との繋がりを作るのに必死で、どうにか番号を交換してはみたが…… 「連絡なんか、くるわけねぇか…」  空を仰ぎながら、幸也は息をついた。  番号は知っている。かけようと思えば今すぐにでもかけられる。でも、こっちから電話はしない。幸也はそう決めていた。あれから10年以上が経った今、また新しい関係を築くかどうかは沙世が決める事だ。自分には沙世を求める資格なんてないのだから。  もう、あの頃とは違う。
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