ー 揺れる想い ー

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 スピーカーの奥から、待ち焦がれた声が伝わってきた。 『幸也? お疲れ様っ…て、幸也はこれから仕事かな?』  思わず口元がほ(ほころ)んだ。ずっと待っていた電話。来ないだろうと諦めていた沙世からの連絡。安堵と気恥ずかしさに苦笑いしながら、幸也はあの頃と変わらない愛しい声を聞いた。 『あれ、車の音がするけど今って外にいるの? かけ直した方がいい?』 「いやっ、大丈夫っ」  少し声が上擦った。電話の向こうから聞こえる沙世の息遣いに、耳が痺れる。胸の内で激しく脈打つ心臓の鼓動が、携帯を持つ手を震わせていた。 『遅くなったけど、この間のお礼を言いたくて電話したの』 「この間の礼?」 『うん。お店でお酒をご馳走になったお礼…あの時、幸也忙しそうだったから何も言わずに帰って来ちゃって』  幸也は小さく吹き出した。そんな理由でわざわざ電話をするなんて、律儀な沙世らしい。 「礼なんていいよ。大した酒じゃないんだし」 『値段の問題じゃないから。本当に、ご馳走様でした。それでね、もし――』  沙世が話を繋げた次の瞬間。 「貸して!」  一瞬の事で、対処できなかった。気づいた時には既に、メイコが携帯をひったくっていたのだ。 「どこの女か知らないけどジンは今あたしと同伴中なのッ。邪魔しないで!!」 「おいッ!」  慌てて携帯を取り返したが、遅かった。ヒステリックに怒鳴ったメイコは電話を切ってしまっていた。真っ暗になった画面に、幸也は愕然となった。半ば諦めていた沙世からの大切な電話だったのに。最悪だ。話の途中で変な女に怒鳴られた挙句ガチャ切りされて、沙世はどう思っているだろう。想像するだけで寒気がした。もしも連絡をくれたなら、言いたい事があったのだ。奇跡に近い再会を、この先に繋げる為の大切な話が。  でも、それも叶わなくなった。沙世との唯一の繋がりが断たれてしまった。このバカな勘違い女の所為で。 「ねぇ~、ジ~ン~…今のだぁれ?」  頬を膨らませるメイコの甘ったるい声が耳朶を掠った瞬間、頭にカっと血が上った。ふざけるなと怒鳴りそうになった寸前、体に染みついたホストの性が咄嗟に声を引き止めた。例え、独占欲が強く傲慢で調子に乗ってる痛い女であっても客は客。こうやって、言葉と酒で酔わせてなんぼの汚れた世界で生きていく為には、これぐらいの勘違いをさせられなければ生き残れない。 「…俺だけが、変わったんだよな…」 「え? なぁに?」  幸也の呟きは、周囲の雑音に紛れて誰にも聞こえなかった。 「ねぇジン、怒ってるぅ?」  腕に巻きついて、上目遣いで機嫌をうかがってくる可愛いカモを、幸也は暗い笑顔で見下ろしながら抱き締めた。胃の辺り熱く、吐き気がする。体の芯から込み上げる嫌悪感と怒りは一体誰に対するものだろうか。胸に抱いたお得意様の耳元に唇を添えると、幸也は乾いた声で囁いた。 「こんな乱暴な事するぐらい、俺を想ってくれてるんだ?」 「だってぇ、ジンはあたしのだもん」 「メイコのそういうワガママなとこ、すげぇ可愛い」  何千回と繰り返してきた感情のないセリフを囁いた瞬間、凍えた心に亀裂が入る。車のクラクションが激しく攻め立てる中、幸也はカバーが軋む程強く携帯電話を握りしめた。  酔っ払った最後の客をタクシーに乗せて店に戻った時、時刻は深夜1時を過ぎていた。店内清掃をしているホールスタッフの声に応じる余裕もなく、ロッカー室に入るなり幸也はプライベート用の携帯から電話を掛けた。予想通り、相手は出なかった。ずっと呼び出し音が鳴っているだけ。  当然だろう。もう寝てるに決まってる。それでも幸也に電話を諦めるという選択肢はなかった。苛立たしげにロッカー室をウロウロしていると、呼び出し音が電話の相手の不機嫌な声に切り変わった。 『…お前ぇ、今何時だと思ってやがるぅ』 「ワリィっ、急いでんだっ」 『知るかアホっ、この自己中ホスト!』  電話口で涼平が怒鳴った。深夜に叩き起こされては機嫌が悪いのも仕方ない。 『お前なぁっ、こっちは明日っ』 「涼平っ、おまえ沙世の住所知ってるよな!? 教えてくれっ」  涼平には悪いと思ったが、不機嫌な友人の文句に付き合ってる余裕はなかった。メイコに電話を切られてからというもの、レストランでも時計店でも、幸也はほとんど上の空だった。沙世にかけ直そうにも上手い弁解が浮かばなかった。どうしていつもこうなのか。店でも電話でも、一番知られたくない相手に一番見せたくない自分の姿を見られてしまう。  こうなったらもう、当たって砕けるしかない。嫌われてもいい。蔑まされても構わない。既に、沙世がホストという仕事をしている自分に幻滅している事は知っている。あの屈託のない笑顔に時折過る暗い影。あれは、心に何かを隠している者の目だ。
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