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沙世の何気ない素振りの中に見え隠れしている密かな感情。それはきっと、女の金に寄生するホストなんてものに成り下がってしまった元彼への嫌悪感。沙世自身、無意識なのかもしれない。無意識に目を逸らし、作り笑いをして、何か言いたげに唇を動かしては言葉を飲み込んでいるのかもしれない。でも、これ以上はもう耐えられなかった。いっそ面と向かって蔑んで欲しい。そうしてくれたら今度こそ諦められる。住む世界が違うと割り切れる。
けれど、その前に一度だけ―――
「頼む涼平っ、沙世の住所教えてくれっ」
我ながらみっともないぐらい切羽詰まった声だった。縋る思いで幸也は懇願した。対照的に、親友は冷静だった。ベットから降りたらしく、ゴソゴソと何かを探っている音が聞こえる。無論、応じる声はこの上なく不機嫌だが。
『何があったか知らねぇけど、こういう事は昼間に言えよ…あぁ、年賀状あった。いいか、メモしろよ。中央区…』
聞きながら、幸也は近くの紙に走り書きした。ペンを持つ手が震える。ここに沙世がいるのだと思うだけで胸が高鳴った。飲み過ぎて気持ちの悪い胸が、緊張と興奮でじんわりと熱くなってくる。
「…202号室だな? わかった、ありがとう」
『礼はいらん、ただただ反省しろ。だいたい夜中に電話で聞くような……おい、ちょっと待てよ。幸也まさかっ、これからおサヨのトコ行くつもりじゃないだろうな!?』
「…行く。どうしても会って話したい」
『バカッ、時間考えろ!』
久しぶりに聞く涼平の本気の怒声だった。
『真夜中だぞ!? 沙世はお前と違うんだッ、明日も朝早いだろうしもう寝てる! こんな時間にインターフォンなんか鳴らしてみろッ、警察呼ばれるぞ!』
「わかってる。けどもう限界なんだ。沙世に会ってちゃんと話したい」
『よせッ、行くな! こんな時間に家に押し掛けるなんて非常ッ――』
会話の途中で幸也は電話を切った。その時には財布をポケットに突っ込み、更衣室を飛び出していた。沙世に会いたい。沙世の声を聴きたい。その思いに急き立てられて足早に廊下を進み、壁際のバーカウンターに差し掛かった時だった。黒い高級スーツを隙なく着こなした店のオーナー―――兄にも等しい恩人が、親しげに声をかけてきたのだ。
「ようジン、こんな夜更けに急いでどこ行くんだ?」
「竜聖さんっ…」
ウエーブがかった黒髪の片方を耳にかけ、40代になっても色褪せない鮮やかな微笑を浮かべながら、竜聖がカウンターから歩み出てきた。今は経営に徹し滅多にホールへ出てはこないが、かつて日本一の歓楽街でホスト業界のトップに君臨した貫禄は未だ衰えていない。この圧倒的な存在感に満ちた恩人を前にすると、知り合って10年以上が経つのに未だ緊張してしまう。
「出張、お疲れさまでした。東京から帰ってきてたんすね」
「ああ、さっきな。お前はこれからアフターか?」
「いえ…ちょっと、個人的な用事です」
ふと片眉を上げた竜聖が、肩を揺らして低く笑った。
「なるほど…女か」
「あっ、その…」
「別に、女疲れを女で癒すのは構わない。だが……わかってるな?」
穏やかだが深く釘を刺されて、幸也は口を噤んだ。"女は抱いても本気になるな"―――この世界に入ってから竜聖に叩き込まれた鉄の掟だ。実際、本気で女に惚れ込み心のバランスを崩して壊れていったホストを腐る程見てきた。けれどもう、自分を抑えていられなかった。こうしている間も頭の中は沙世でいっぱいだ。鉄の掟に背く密かな覚悟を恩人に悟られないよう、幸也は必死に平静を装った。
「わかってます。俺も、この業界は長いですから」
「…そうだったな。すまん。楽しんでこい」
「お先に失礼します」
「おう、お疲れさん」
丁寧に一礼すると、幸也は足早に店を出た。地上を目指して階段を駆け上がっている間、耳の奥で涼平の言葉が重く響いていた。
"お前と沙世は違うんだッ"―――
涼平に悪気なんかない。それが偏見じゃない事もわかってる。だが、今は痛い言葉だった。教師とホスト。不釣り合いな身分同士だ。圧倒的な社会的地位の格差は、ある意味、沙世との距離でもある。けれどもしも、万が一にも沙世が受け入れてくれたなら―――幸也は通りに出ると、反対車線に停まっている客待ちのタクシーに駆け寄った。走り書きしたメモを、硬く握りしめて。
深夜の住宅街は、ひっそりと静まり返っていた。沙世が住むアパートの前でタクシーを降りた瞬間、幸也はハッと息を飲んだ。時刻は深夜1時を過ぎているのに、窓には明かりがついている。幸也はもう一度メモを確かめた。202号室。あそこだ。間違いない。
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