ー 揺れる想い ー

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 階段を上がって右端のドアの前に立つと、中から人の気配がした。幸也はインターフォンを鳴らしてしまってから、致命的なミスに気づいて舌打った。勢いで来たはいいけど、押し掛けた言い訳を用意してない。もっとも深夜の訪問に正当な理由なんて存在しないが。  幸也は真剣に悩んだ。何て言えばいい? 電話の件と、夜中に押しかけた事。沙世にどう弁解すればいいんだろう。焦っているうち、ドアの奥に人の気配が近づいてきた。ドア越しからでも警戒しているのがわかる。幸也は深く息を吸い込んだ。緊張と焦りで口が乾き喉が張り付く。その所為か、覚悟を決めて押し出した声は、夜風に紛れてしまう程に掠れていた。 「…沙世?…こんな時間に悪い…俺だけど」 「幸也!?」  声が聞こえたのとドアが開いたのは同時だった。あと少しでも避けるのが遅かったら、顔面にドアが直撃していた。 「おっと!?」  のけ反った幸也の目に飛び込んできたのは、水色のTシャツとゆったり系ズボンに青いパーカーを羽織った部屋着の沙世と、そして、右手に握られたペットボトルだった。500mlのお茶。しかも中身は空。それをまるで十字架でも握るように持ったまま、沙世が驚いた顔で見上げている。 「沙世…それ、もしかして武器か?」 「えっ? あぁっ、うん!」 「……」  我慢したけどダメだった。幸也は吹き出した。なんて可愛いボケだろう。深夜だという事も忘れて、大声で笑ってしまった。 「お前、コントじゃないんだから、せめてフライパンとかにしろよ。こんな軽いモンで殴ったって意味ねぇだろ」 「あっ、そっか!」  言って、沙世がケラケラ笑った。化粧気がない分、高校時代の面影がより鮮明に笑顔に表れている。急激に、胸が熱くなってきた。アルコールの所為じゃない。沙世の屈託のない笑顔は薄闇の中でも輝いて見える程に綺麗だった。少しでも気を抜いたら強引に抱き締めてしまいそうで、幸也は理性の限りを尽くして身勝手な欲望をどうにか抑え込んだ。 「ねぇ幸也、とりあえず中に入ってくれる?」  辺りを見回しながら、中へ招くように沙世がドアを大きく開けた。 「ご近所の目もあるからさ…どうぞ」 「…じゃあ、お邪魔します…」  促されて、幸也は遠慮がちに部屋に上がった。1LDKの質素な部屋だった。ベランダが付いた8畳間の右側には小さなカウンターキッチンあり、対面の6畳間にはベットが1つあるだけ。家具も必要最低限の物しかなく、ソファの前の座卓にはパソコンが起動したまま置いてある。こんな時間なのにまだ仕事していたのか、座卓には英語の資料と採点中のテストが散乱していた。 「散らかってるけど、適当に座って」 「沙世…」 「うん?」  何事もなかったように見返す沙世に向かって、幸也は躊躇(ためら)いがちに切り出した。 「あの…さっきの電話…ゴメン…」  束の間の沈黙は、とても長く感じた。「あぁ、あの電話の事ね」と呟いた口から、どんな言葉が出てくるのか怖かった。けれど、予想に反して沙世の口調はあっけらかんとしたものだった。 「私の方こそなんかゴメンね。仕事中だったんでしょう? 間が悪かったよね」 「…え? それだけか? あんな切り方されたのに…俺に怒ってねぇの?」  沙世がきょとんと首を捻った。 「なんで私が幸也に怒るの? むしろ申し訳ないと思ってたよ…まぁ、座って」  思い詰めていたのがバカらしくなる程、沙世の態度はさっぱりしていた。少し拍子抜けしながらソファに座った瞬間、ふと卓上の資料が目に入った。幸也は何気なく資料を手に取った。『第2学年英語科指導案』とある資料には、小難しい専門用語や英文がびっしり綴られていた。生きてきた場所の違いを痛感させられる。沙世は座卓の前にしゃがみ込んで、手早く片づけ始めた。 「いつもこんな時間まで仕事してんの?」 「今ちょっと忙しくて。9月に私の研究授業があって、指導案やら研修会議用の資料やら立て込んでるんだよね」 「…すげぇな…」  読み取る事さえできない資料を眺めて、幸也はボソっと呟いた。朝8時からこの時間まで仕事をしたって、公務員の給料など精々20万前後。時給に換算したら一体いくらになるだろう。一方今日の店の売上は、沙世の年収より確実に高い。酒と言葉で心を酔わせた女達から巻き上げた金だ。幸也は卓上を片づける沙世を不安げに見つめた。この笑顔の裏に、沙世はどんな気持ちを隠しているんだろうか。 「ねぇ、お茶でいい? それともコーヒーとか…」 「いらない」  立ち上がりかけた沙世の腕を、幸也は咄嗟に掴んでしまった。引き止めて初めて、続けるべき言葉を持っていない事に気づく。一瞬、頭が真っ白になった。視界に、あの頃と変わらない素顔の沙世が映っている。不思議そうに見つめる沙世は、やっぱり綺麗だ。何度も夢に見た、記憶の中でしか会えなくなった沙世が今、目の前にいる。確かな現実の中に。  胸の中で、心臓が一際強く脈打った。肋骨が軋む程強く脈打ったその瞬間、長い間封じてきた想いが一気に溢れ返った。  沙世が好きだ。  その想いで、頭の中がいっぱいになった。濁流のように渦巻く激しい想いを、幸也は自分でも半ば無意識のうちに吐き出していた。 「お前からの電話、来ないと思ってた。お前はきっと、俺とは関わりたくないって…」 「違うよっ、私はっ」 「聞いてくれ! 頼むっ、聞いて…」  否定する沙世の声を遮ると、幸也は口を挟む余地を与えず一気に告げた。
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