ー 揺れる想い ー

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「俺の時間はあの日で止まってる…ずっとあの日の事を悔やんできた。デートの約束をした日の前の晩、いきなりオヤジが逃げるって言い出したんだ。借金の取り立てがキツくて、家に居ても息を潜めてるような状態だったから、いつかはそうなるんじゃないかと予想はしてたけど…でも俺、オヤジに頼んだんだよ。あと1日だけ待ってくれって。お前との約束を果たしたら文句言わずにどこでも行くからって。けど喋ってるうちに、男が数人ドアの前で怒鳴る蹴るの大騒ぎを始めて…」  苦々しい過去の記憶。自然と、沙世の腕を掴む手に力が入る。 「待ってられる状況じゃねぇって、オヤジに言われた。借金したダチってのが相当ヤバい所から金借りてたみたいで、このままじゃ、臓器売買の組織に売り飛ばされるかもしれねぇって、3人で窓から部屋を出たんだ。後は、この間クラス会の時に話した通り…」  掴まれた腕を払うでもなく、目の前に膝をついて、沙世は沈痛な面持ちで話を聞いていた。じっと見つめる瞳が、どこか悲しげに揺れている。 「今更だけど、俺は間違ってたと思う。あの日、お前に会いに行くべきだった。ちゃんと会って事情を説明して、きちんと別れるべきだった。でも、けじめをつける自信がなくて、別れるって言葉で伝える勇気がなくて、借金取りから逃げたオヤジと同じように俺もお前から逃げたんだ…その所為で、お前がどんなに傷ついたか…謝って済む話じゃねぇけど…本当にごめん…」  この瞬間をどれだけ想像しただろう。長い間心の底にこびりついた氷塊が溶けていくのを感じながら、幸也は想いを伝え切った。沙世は、何も言わなかった。責めるわけでも憐れむわけでもない。ただ慈母のように優しい微笑を浮かべただけ。枯れた心が温かく潤っていくのがわかった。じんわりと熱くなった胸の奥で、止まった時間がまた、動き始める。 「…幸也…」  沙世は切なげに微笑んだまま沈黙していたが、腕を掴む手にそっと掌を重ねると、小さな子供をあやす母親めいた優しい口調で語りかけてきた。 「私ね、あの日の翌日、朝の学活で古谷先生から"滝山は家の事情で退学した"って聞いた時、凄く悲しかったけど、同時に凄く安心したの」 「安心…?」  視線の先で、沙世が頷いた。 「そう、安心した。あの日、時間になっても来ない幸也をテレビ塔の下で待ってる間、心配で堪らなかった。電話しても出ないし、暗くなってきて、もしかしたら事故に遭ったんじゃないかと思って、あの晩は心配で寝られなかった。でも次の日、幸也が来なかったのは家の事情で、事故に遭ったわけじゃない、元気にしてるってわかって、本当に安心したんだよ…私もね、テレビ塔を見る度ずっと幸也を思い出してた。どこで何をしてるのかなって、いつも考えてた。もう会えないと思ってたから、再会できて本当に嬉しい…だから、もう謝らないで」  向けられる温かい沙世の目を、幸也は眩しげに見つめ返した。これは本当に現実なんだろうか。都合のいい夢を見てるだけなんじゃないだろうか。沙世もまた、自分を思い出してくれていたなんて。親の莫大な借金を返す為、将来を諦め、自分を殺し、東京で孤独に過ごした10年間が報われた気がした。幸せな今が紛れもない現実である事を確かめるように、幸也は掌に伝わる沙世の腕の温かさを噛みしめながら、胸を満たす10年分の想いを口にした。もう二度と、後悔したくないから。 「…沙世…もう一度、やり直せないか…?」 「やり直すって…あの日のデートを?」  真剣に見返す沙世の瞳に、幸也はクスっと笑った。笑って、言葉を重ねる。 「それも含めて、全部…全部やり直したい…お前が好きだ」 「!」  沙世の目が、大きく見開いた。凝然と固まった顔に、動揺と混乱の気配が過る。けれど幸也は一歩も引かなかった。これが沙世に想いを伝える最後の機会だ、今度こそ逃したくない。  幸也はゆっくりと沙世の腕を手繰り寄せた。自分の方にそっと引き寄せると、困惑する沙世のほんのり赤い顔を見つめて言い綴る。 「こんな夜中に押し掛けてきて、いきなり口説くとかねぇよな。でも俺は本気だ。ホストなんて商売してるから信じてもらえないだろうけど、ずっとお前が好きだった。高校の時からこの気持ちは変わってない。変えられなかった。いっそ忘れられたら楽だったのに」 「……」 「沙世…好きだ。お前が好きだ。もう一度、こうやってお前に告白したかった」 「…私は…」  私は―――その先に続く言葉は何だったのか。沙世は物言いたげに唇を動かしたが、小さな息をついただけで沈黙した。まただ。時折見せる、沙世のこの反応。幸也は怖かった。「私は」の先に続くセリフが恐かった。だから、卑怯だと思いながらも退路を断つようにして畳み掛けた。 「ホストの俺じゃダメか? 俺の言葉は信用できない? なぁ沙世、聞かせてくれよ、お前の気持ち。もう俺とはやり直せないか?」 「やっ、あのっ、幸也ちょっと待ってよ」 「ダメだ。今返事が欲しい」  幸也は考える猶予を与えなかった。勢い任せに押し切るズルイやり方。でもなりふり構っている余裕はなかった。沙世が冷静になる前に、幸也は最後の一手を差し込んだ。
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