ー きっと忘れない ー

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 彼が好き。その気持ちに嘘はない。温和で、大人で、いつも何かと気遣ってくれる優しい彼が好き。年上の彼は36才で、決して若くはないけれど、自分も29才という年を考えれば、年齢の差は気にならなかった。大人の余裕も包容力もある彼は、突然壊れてしまった初恋以来、初めて好きになった人。心の穴を埋めてくれた人だった。  その気持ちに気づいてからの日々は、正直苦しかった。どうして彼が姉の夫なのか、意味もない事を悩みもした。けれどその苦痛も、姉が堂々と浮気してくれた事で幾分やわらいだ。義兄(あに)も同じ気持ちだと知り、男女の仲になってからは罪悪感すらなくなって、自分の罪を、夫に無関心な姉の所為にして、ずっと秘密の関係を続けてきたのだ。  これは真剣な恋だからと、身勝手な言い訳で関係を正当化している事はわかってる。この事実を姉が、父や母が知ったら、もう二度と家族には戻れない。それでもいいと思った。彼と未来を築く為に家族を捨てる覚悟はできている。そう、家族を失う事を恐れてるんじゃない。  踏み出せないのは、せっかく実現させた夢を、ここで終わらせてしまう事への後悔と未練。捨てられないのは家族じゃなくて仕事の方。教師になるのは昔からの夢だった。  憧れの教壇に立ち、自分なりに工夫した新しい英語の授業が認められ、文科相の学習指導研究者に選ばれる名誉も授かった。それを捨てる覚悟もしたはずなのに、心が夢を手放す事を拒んでいる。好きな人と新しい人生を築く為に、汽車に乗ろうとする自分を引き止めているのだ。  仕事と、彼との未来と、どっちを選ぶかなんてとっくに決めたはずなのに…… <――まもなく2番線に、新千歳空港行き、快速エアポートが到着します。白線の内側まで下がってください>  鉄筋で組み立てられた冷たいホームに、予告放送が響いた。ふと周りを見ると、いつの間にかホームには大勢の乗客がいた。札幌駅を通過して千歳まで行くこの路線は、夕方になると繁華街に飲みに行く若者や帰宅する人達でいつも混雑する。  今も改札口から流れてくる乗客達が、エスカレーターと階段から続々とホームに上がって来ていた。その様子を眺めながら、沙世は冷たくなった手でキャリーケースのハンドルを掴んだ。今度こそ立ち上がると、ケースを引いて乗降口に並ぶ列の最後尾に立つ。  これでいい。彼に会えば迷いも消える。後悔なんて溶けてなくなる。そう信じて、沙世は高架橋の奥からこちらに向かってくる銀色の車体を見据えた。近づいてくる汽車の顔を、あたかも自分の心と向き合うように決然と見ながら待ち受けた。  到着のアナウンスが終わらないうち、プラットホームを流れていた車体が、金属音を引きずりながら停車した。プシュっと勢いよく空気を噴いてドアが開く。  先頭の客から順に車内へ流れる列の最後尾で、沙世はカラカラとキャリーケースを引きながら、ドアに向かって歩みを進めた。一歩、また一歩とドアが近づく中、胸いっぱいに膨らんだ迷いからあえて意識を逸らして、汽車に乗る事だけに集中した。  この線路の先にはきっと、幸せな未来がある。自分の選択は間違ってない。往生際の悪い心にそう言い聞かせて、前の女性客に続き、沙世は汽車のデッキに足を乗せた。 <――16時27分発、新千歳空港行き、快速エアポートが発車します。ドアが閉まりますので、ご注意下さい>  柱の上のスピーカーから流れるアナウンスに、ピロロロロと軽快なベル音が重なった。ドアが閉まると同時に、銀色の車体がゆっくりと動き始める。 「……」  人気のなくなったホームで、沙世は独りその場に(たたず)みながら遠ざかる最後の汽車を見送った。  彼と海外で暮らす人生を、沙世は選ばなかった。  彼が好き。その気持ちは今も変わらない。一緒にいたい。心からそう思う。けれど、彼の妻として生きる人生を最後まで思い描けなかった。教師である自分と、彼の妻になった未来の自分、もしも神様に、どちらの立場で生涯を終えたいかと問われたら、たぶん"教師"と言うと思う。だから、汽車に乗らなかった。それが答え。  幸せな未来を乗せた汽車は、彼が待つ空港へ向かって旅立った。でも、彼との新しい生活より教師として生きる人生を今選択した事に、後悔はない。 「…だったら私、なんで泣いてるんだろ…」
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