ー 揺れる想い ー

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「立派に教師やってるお前と違って、俺は税理士目指してた高校の頃とだいぶ変わっちまったけど、お前が好きだっていう気持ちだけは変わってない。それだけは信じて欲しい…沙世、俺はちゃんと正直に言ったぞ。今度はお前の番だ。正直な気持ち、聞かせてくれよ」 「……」    困惑気味に見返す沙世の瞳は、何かを訴えたそうに揺れていた。幸也は祈るような思いで返事を待った。聞かせてくれなんて迫っておいて、胸の内では緊張と恐怖で心臓が重く脈打っている。どのぐらいお互い沈黙していただろう。まるで苦いものでも飲み込むみたいに瞼を閉じると、一呼吸おいて、沙世はゆっくり瞼を開いた。少し恥ずかしそうな、柔らかい微笑を添えて言う。 「正直、なんだか話が早くて混乱してる。私の気持ちって言われても、上手く説明できないよ。今の私、告白されて舞い上がってるから…でも、私も幸也と一緒にいたい。その想いだけは確かだから、もう一度、やり直してみよっか…2人で、最初から」  ほんのり赤い沙世の顔に滲む笑顔は、高3の時に告白した時と同じ(くすぐ)ったそうな笑顔だった。10年経っても色褪せない、清純で綺麗な微笑み。喉に詰まった息をホっと押し出すと、幸也は懐かしい安堵感と興奮に胸を震わせた。夢みたいだ。いい年して心躍らせている事に、自分でも呆れてしまう。自嘲と共に、思わず本音が漏れた。 「あ~…良かった。絶対ダメだと思った…あぁっ、久しぶりにビビったぁ」  よっぽど情けない顔をしていたらしい。沙世がクスクス笑っている。 「ビビったって、お店じゃお客さんに対して饒舌に喋ってたじゃない」 「気持ちがねぇから言えるんだよ」  眩しいものを見るように、幸也は沙世を見返した。 「本気の気持ちを伝える時は、いつもどんな反応されるかビビってる。高校の時も、今も同じ…お前がどんな答えを出すのか怖くて、凄くドキドキしてる」  幸也は沙世の反応を確かめながら、慎重な手つきで細い腕を引き寄せた。本当は思いっきり抱き締めたい。腕の中に閉じ込めて、自分のものだと実感したい。けれどそうできないのは、沙世に誤解されたくないからだ。  沙世は金で男を買いに来る連中とは違う。  純粋で、真面目。  今ここで欲求に流されて触れてしまったら、体目的なのかと勘違いされかねない。そんな事になったら全て水の泡だ。奇跡とも言える今この瞬間を壊してしまわないよう、幸也は細心の注意を払いながら、少し強張っている赤くて愛しい顔に囁きかけた。 「なぁ…手、握ってもいい?」 「手? あぁ…うん…」  想像していた言葉と違ったからか、沙世は一瞬呆気に取られたように目を見開いたが、コクリと頷いた。幸也は腕を掴んでいた手を下へと滑らせた。細い手首を通って触れた手は思った以上に温かくて、小さくて、幸也はその温もりを味わうように自分の頬に押し当てた。 「やわらけぇ手だな…」 「幸也のほっぺ、冷たいね。夜風で冷えたんじゃない?」 「そうかも…沙世が温めてくれる?」 「!」  一体どんな場面を思い描いたのか、ギョっと目を剥いた沙世の顔がみるみる赤みを増してゆく。素直というか純情というか、沙世の反応があまりに可愛くて、幸也は小さく吹き出した。 「お前、今なんか想像しただろ」 「しっ、してないけど!」 「ウソだ」 「うそじゃないってば!」 「沙世はウソつく時、鼻の穴が膨らむんだよな。こんなふうにさ」 「えぇっ!? そうなの!?」 「…うそ」  自分でも、自分が何をしたのかわかってなかった。意地悪を言った時にはもう、沙世を抱き締めていた。 「わっ…幸也!?」 「好きだ」  ほぼ無意識のうちにそう呟いて、幸也は強く沙世を抱き締めた。最前までの躊躇(ためら)いや慎重さなんて込み上げた激情で蒸発してしまっていた。ずっとこうしたかった。抱き締めたかった。やっと叶った10年越しの念願に涙が出そうになる。  腕に包み込んだ沙世の体は、思わず溜息が漏れるぐらいしなやかだった。柔らかい胸の感触が、じんわりと全身に沁み込んでくる。鼻を掠めた匂いは、シャネルやグッチの香水じゃなく、飾り気のない石鹸の香り。優しくて、控えめで、沙世と同じ香り。なんて幸せな匂いなんだろう。頭が溶けそうだ。10年間でこびり付いた穢れが洗い流されていくような気さえする。幸也は甘やかに香る細い首に鼻を押し当てたまま、体を捻って沙世をソファに倒した。 「きゃっ!?」 「"きゃっ"って、なにその可愛い反応…反則だぞ」 「ちょっとっ、幸也酔ってる!?」 「…確かに、ヤバいかも…」 「えっ、大丈夫!?」  胸の下で強張る沙世の体の震えを感じながら、幸也は遠退きそうになる意識の中で、必死に暴走しそうな自分を抑え込んだ。抱きたい。沙世の素肌に触れたい。唇で味わいたい。強烈に思考を圧迫する淫らな欲望を、渾身の力を振り絞って腹の底に押し込めると、幸也は熱い耳に訴えた。 「大丈夫じゃねぇわ…本当に、ヤバい…お前のこと好き過ぎて…頭がクラクラする…」  耳元で、沙世が何か言っていた。けれど幸也はほとんど聞き取れていなかった。本当に頭が痺れていた。意識が急速に遠退いていく。背中を摩る優しい手の感触と、耳を掠める沙世の息遣いの記憶を最後に、幸也は温かで幸せな暗闇の中に意識を手放した。  包丁がまな板を叩く音を久しぶりに聞いた。  心地よいまどろみに浸る頭が、ゆっくりと澄み渡ってゆく。ふわりと香ばしい味噌の香りが鼻を撫でて、幸也は重たげ瞼を開いた。薄桃色のカーテンが開け放たれたベランダからは、黄金色の淡い朝日が射し込みほんのり部屋を暖めている。
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