ー きっと忘れない ー

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 自嘲交じりにぽつりと漏れた呟きは、ホームのアナウンスに紛れて誰にも聞こえなかった。後悔はないはずなのに、涙が出るのはどうしてだろう。止めどなく頬を伝う涙の熱を感じながら、沙世は空港で待つ彼を想った。今も待ち合わせのロビーで待ってる彼の姿が、あの日、来なかった初恋の人を待つ高校生の自分と重なり合う。  時間になっても来ない人を、祈るような気持ち続けたあの日の自分。彼も今、同じ気持ちでいるはず。やっぱり一緒にはいけない。この言葉を聞いて、彼は何て答えるのか、耳にするのが怖かった。けれどたぶん、いや、きっと許してくれる。彼はそういう人だから。 「…ごめんなさい、にいさん…」  冷えた唇から漏れた声は、彼への想いで揺れていた。小さくなった汽車はもう、涙でボヤけた視界に溶けて見えない。沙世はキャリーケースのハンドルを力一杯握り締めた。そうしてないと、みっともない嗚咽が溢れてしまいそうだった。せめて彼には泣き声を聞かせたくない。冷静で、落ち着いた大人の女でいたかった。電話の向こうにいる彼が、安心して旅立てるように。  沙世はカバンから携帯電話を取り出した。空港で待つ彼に、行けないって伝えないと。そう思って彼の電話に発信しようとした、その時だった。 「そこのお姉さん、大丈夫?」  背後から、男の声が肩を叩いた。咄嗟に顔を伏せて、沙世は肩から下がる髪で顔を隠した。いい年をして泣き顔なんて他人に見られたくない。電源を入れた携帯を胸に隠すと、沙世は聞こえなかったフリをして、その場を立ち去ろうとしたのだが、 「待って、お姉さんの事だよ」  エスカレーターの手前で呼び止められた。沙世は顔を上げず、視線だけ斜め後ろへ滑らせた。汚れのない革靴に濃紺のスーツ。それだけ見れば普通のビジネスマンだけど、光沢のあるダークグレーのYシャツに黒系ネクタイはどう考えても仕事着じゃない。その証拠に男の髪は茶色く染まっている。  沙世はすぐにピンときた。警戒心を緩ませる甘やかな語り口に、遠過ぎず近過ぎずの絶妙な距離感と、むせ返る程に漂う男の色気。香水の匂いに混じる華やかで少し危険な香りは、夜職の人間が持つ独特の体臭だ。この時間帯の駅は、結構そういう類の人達がいる。この男もそうだろう。店にでも誘う気なのか、様子を(うかが)うように一歩近づくと、男が無遠慮に話しかけてきた。 「お姉さんさぁ、もしかして朝からずっとここにいる? 俺ね、今朝の7時半ぐらいだったかな、3番線に降りたんだけど、反対ホームでお姉さんを見かけた気がするんだよ。このキャリーケース横に置いて、そこのベンチに座ってなかった?」  キャリーケースを握る手に力を込めると、沙世は男から守るようにして胸に隠した携帯電話を握りしめた。今は誰とも口をききたくなかった。放っておいて欲しい。小さな親切大きなお世話だ。ましてやナンパに付き合う気はなんて毛頭ないし、疲弊した心にそんなゆとりは残ってなかった。それでも常識を欠くことなく応じられたのは、"礼儀正しく真面目な妹"を長年演じてきたおかげかも。 「人違いだと思います。私、もう帰りますので」  一瞬だけ顔を上げると、沙世は男の胸元を虚ろに見ながら会釈した。次の瞬間、男の喉がヒクリと引きつった。 「え……ウソ、だろ――」  何て言ったのか、男の声は1番線に入って来た汽車の騒音に掻き消されて聞こえなかった。沙世は足早にその場を離れた。関わりたくない。キャリーケースを引きずってエスカレーターに向かい、床から次々に湧き出る鉄の階段に踏み込むと、緩やかな坂道を下りながら、沙世は胸に抱えた携帯電話の画面をそっと見つめた。  下から吹き込んでくる風が、涙で濡れた頬を優しく撫でてくる。エレベーターから降りて改札口を通り抜けると、沙世はそこで立ち止まった。登録してある彼の電話番号を画面に出して、発信する。  数回のコール音が耳に伝わった直後、 『――もしもし? 沙世ちゃん?』  心配そうな彼の声が鼓膜を叩いた。沙世は込み上げた涙を飲み込んだ。深呼吸して心を落ち着かせながら、震える唇を押し開いた。  彼との恋を、終わらせる為に。
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