ー ファースト・ラブ ー

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ー ファースト・ラブ ー

 昨日、シアトルからハガキが届いた。  彼が海外に発って1カ月。送られてきたハガキには、季節の挨拶も近況を知らせる言葉もなかった。ただ、紙面に彼が撮ったらしい写真が印刷されていただけ。  ハンマーを持つ男の巨大なオブジェが有名なシアトルの美術館の写真。西洋の絵画からアフリカアートまで、コレクションが豊富な人気のアートミュージアムだと雑誌に載っていて、行ってみたいと言った場所だった。  JR駅の改札口からかけた電話で、一緒には行けないと話した時、彼は「そんな気がした」と言って笑ってくれた。美術館には代わりに僕が行ってくるよと、そう言い残して静かに会話を閉じた。姉の夫と2年も続けた不倫の終わり方としては、これ以上ない程に綺麗な幕切れだと思う。  2階の教室の窓辺に立つと、沙世は片手を日傘代わりにして、眩しげに晴天を見上げた。雲一つない青く澄んだ空。6月も半ばになってようやく、北海道の空にも五月晴れが広がるようになった。札幌とシアトルの時差は16時間。こっちが午前10時ちょっと過ぎだから、向こうは午後6時ぐらい。彼が見ているアメリカの空は、今頃きれいな夕焼け色に染まっているのかな。 「香坂先生、ここって期末に入るんですかぁ?」  後方のドアから、男子生徒の質問が飛んできた。問題集を解いている教室中の生徒達が、一斉に顔を上げた。こっちを見る子供達の目は、期待と不安で揺れている。その様子が可愛くて、沙世は思わず笑ってしまった。 「そんな真剣な顔しちゃって…もちろん、未来形も試験範囲だよ」 「うわぁぁっ、最悪だぁぁっ」  丸刈りの男子の悲鳴に、皆の笑い声が混ざった。担任をしているこの2年A組は、スポーツと勉強の成績はまずまずだが、学年の中でもとりわけ明るく元気のいい生徒が集まっている。問題行動もイジメもない、本当にいい子達ばかり。担任としてはもう少し積極性を身に着けて欲しいところだけれど、何でもすぐに頼ってくるところがまた可愛いかった。  生徒達の(ざわ)めきに、終業のチャイムが重なった。日直の号令で授業が終わり、教室を移動する生徒達を沙世は笑顔で励ました。 「テストまで2週間もあるんだから大丈夫! 皆しっかり勉強してね。最後まで諦めない!」 「もうムリっす。英語はムリっす」 「センセ、宿題のワークってどうするんですか?」 「あっ、ワークねっ。忘れてたっ…点検するから皆ここに出して!」  更衣室へ移動する生徒達が、次々に教卓の上にワークを乗せていく。30冊ともなれば結構な高さと重量があった。沙世は自分の教材を一番上に乗せると、積み重なったワークの束を落とさないよう慎重に持ち上げた。予想より、かなり重たい。無事に階段を下りられるかちょっと不安だったけど、()える気持ちを奮い立たせて沙世は教室を出た。腕と胸でワークの束を抱えながらフラフラしていたら、背後ろから苦笑交じりの声が聞こえた。 「香坂先生、それムリですよ」 「藤崎先生っ」  廊下の奥から小走りで寄ってきたのは、今年から同じ2学年になったD組の担任で数学教師の藤崎慎吾(ふじさきしんご)だった。スラリと背が高く、筋肉質の細身にスーツを着こなす風貌は、教師というよりビジネスマンに近い。耳の上で綺麗に切り揃えた髪と精悍な顔立ちから若く見えるが、5つも年上の中堅教員だ。若手の指導の他、進路指導主事と研究部の部長を兼任している実力派教師で、義務教育課程が大きく変わる中、数学的思考を育てる教育法を精力的に実践して注目を浴びている数学界のホープでもある。教師としても同僚としても沙世が頼りにしている先輩だ。 「階段危ないから、それはオレが持ちますよ。貸して下さい」 「あっ、すいませんっ」  教科書と三角定規を小脇に抱えると、藤崎は30冊のワークの束を軽々と引き取った。すれ違う生徒達を器用によけながら、隣で爽やかに笑う。 「香坂先生って見るたびにいつも何かを抱えてますよね。この間はCDプレーヤーで、その前は単語のフラッシュカードの箱が3つ。英語担当の生徒にやらせたらいいのに」 「やってもらってますよ。ただ今日は次の時間に体育があって、子供達もジャージに着替えたりして忙しいから自分で運ぼうと思ったんですが…結局、また藤崎先生に手伝って頂いちゃいましたね。すいません」 「いいんですよ。気にしないで下さい。困った時はお互い様です」
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