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水飲み場があるホールに差し掛かったところで、いきなりヒューっと口笛が飛んできた。前方から来た男子達が、ニヤケながら茶化してきたのだ。
「うわ~、藤崎先生やさしっスね~」
「また香坂先生のお手伝いっすかぁ?」
「好きなんですかぁ?」
「付き合ってるんですかぁ?」
「お前らウルサイっ…おいっ、廊下走るなよっ」
笑いながら走っていった男子達の背中を横目で見つつ、藤崎が溜息をついた。
「まったくアイツら…すいません香坂先生、うちの奴らが騒がしくて」
沙世は小さく笑った。
「D組は元気がいいですね」
「元気がいいというか、調子がいいというか、あのパワーをもう少し勉強に向けろって感じですよ。オレも今まで何度も担任してますけど、こんなに振り回されるのは初めてです。ところで香坂先生、研究授業の準備は進んでますか?」
階段を下りながら、ふと思い出したように藤崎が訊ねてきた。研究授業という響きが肩に重く圧し掛かってくる。自然と、沙世の口から重たい息が漏れた。
「それが、全然できてないんです。指導案もまだ作ってなくて、急がなきゃって焦るばっかりで空回りしてるんです」
「略案だけでも来月までに作らないと、後々キツイですよ」
微笑みながらも真剣な目をして、藤崎がやんわりと忠告してきた。
9月に行われる文部科学省の指定校・公開授業研究大会。この北新中学校は今年度、新しい学習指導要領に基づいた授業を実践するモデル校に指定されている。国が推奨すがるアクティブ・ラーニングや主体的・対話的な深い言語活動を取り入れた独自のスタイルで、先駆的な英語授業を展開してきた実績が認められて、沙世が北海道・東北ブロックの中等教育学習指導研究者に選ばれたからだ。
それはとても名誉な事だけど、研究授業の準備が加わり業務量が3倍になった。完全に容量オーバー。学級通信すらまだ手をつけられずにフォルダの中に放置している。おかげで最近、満足に寝る時間もない。
「香坂先生の公開研は9月ですから、2学期明けからすぐに準備が始まります。指導案の検証やデモ授業の後の練り直しとか色々あると思うので、略案ぐらいは今学期中に仕上げた方がいいですよ。先生の場合は文科省の視学官と教科調査官が揃って視察に来る最大規模の研究授業ですからね……プレッシャー、半端ないでしょう。大丈夫ですか? ムリしてません?」
隠していたつもりだったけど、見抜かれていたらしい。沙世は苦笑いしながら素直に認めた。
「バレました? 実は、切羽詰まってました。もう何から手をつけたらいいのかわからなくて、公開研の事を考えるとオエってなっちゃいます」
崩れかけたワークの束を抱え直して、藤崎が優しく微笑みかけてくる。
「わかりますよ。オレの場合は市教研でしたけど、それでも結構なプレッシャーでした。緊張して授業中に何本もチョーク折りましたよ」
「藤崎先生でも緊張する事あるんですか?」
意外だった。いつも冷静沈着で完璧な仕事をするこの人でも、取り乱す事があるんだろうか。不思議に思いながら見上げた先で、薄く笑いながら藤崎が頷いた。
「ありますよ。今も緊張してます」
「は?」
「いえ、別に。とにかく、あまり思い詰めないで下さい。オレも微力ながらバックアップしますから…あ、そうだ香坂先生、来月の体育祭の夜って何か予定ありますか?」
「体育祭の夜ですか?」
どうだったかな。頭の中で手帳を捲りつつ、沙世は必死に記憶を掘り起こした。
「確か…特に何もなかったと思いますけど…」
「良ければ食事しませんか? その日は部活もないし、どっかで食事でもしながら一緒に研究授業の事前検証してみません? 扱う単元内容の確認とか評価観点に基づいた導入・展開をどうするかとか、客観的に検証したら指導案も作りやすいと思いますよ」
「手伝って下さるんですかっ?」
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