ー ファースト・ラブ ー

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 沙世は歯切れ悪く口ごもった。即答できなかったのは、特別な用事がなかったからだ。欠席の理由としては正当性を欠くような気がしたけれど、ハガキには"多忙につき"と一筆添えた。それが一番無難だったから。本当の理由なんて書けるわけなかった。皆に会って、高校時代の懐かしさを感じてしまったら、せっかく胸の奥底に封じ込んだあの"苦い思い出"まで掘り起こす事になりかねない。それが怖かった。  あの日、消えてしまった彼の存在を近くに感じてしまったら、きっと凄く寂しくなる。やっと彼の夢を見なくなったのに。ようやく喪失感ごと恋心も薄れたし、他人を好きなれるまでに心の傷も癒えた。あれから10年と少々。テレビ塔の前を平常心で通過できる程の月日が流れて、自分の中では区切りをつけたつもりでいる。今更古傷に触るような事は可能な限り避けておきたいのだ。沙世はどうにか適当な用事を作り出すと、努めて平静を装いながら曖昧に誤魔化した。 「そうじゃないんだけど、今ちょっと仕事が忙しくてね。次の日も朝から部活あるし、仕事も溜まってるし、皆には会いたいけど、今回は欠席しようかなと思ってる」 『部活?…おおっ、そっかぁ。おサヨ、教師やってんだもんな! 日曜なのに部活の指導か、大変だな』 「でも楽しいよ。サービス残業多いけどね」 『学校の先生は忙しいなぁ…でもさ、ほら、卒業してから10年ぐらい経つだろ? 忙しいからこそ、皆に会ってパ~っと気晴らしとかどうよ?』  沙世としては遠回りに断ったつもりだったが、涼平には全く通じていなかった。普通、何年も社会人をしてたら雰囲気で察する事ができると思うのだけど。仕方ないので沙世は今度こそきっぱり言い切った。 「誘ってくれてありがとう。でも今回はやっぱり厳しいかも。残念だけど行けないわ」  はっきり口に出したにもかかわらず、涼平は引き下がらなかった。口調こそ軽やかだが、なぜかしつこく食い下がってくる。 『そう言わずに1次会だけでも来いよ。6時から8時までの2時間だから、帰りもそんな遅くなんねぇし、なんなら途中参加でもオッケー! 酒がダメならソフトドリンクもある!』 「いや、そういう問題じゃなくて…」 『な? 来てくれよぉ、俺も久しぶりにおサヨに会いてぇんだよぉ。それに…えっと…あ! そうだっ、古谷先生! 担任の古谷先生も来るんだっ。先生3月で定年したからさっ、皆で退職祝いしようってサプライズ企画してんだよっ』 「えっ、古谷先生も来るの?」  反射的に沙世は聞き返した。担任の古谷先生は体育教師で、親身に進路の相談に乗り、時には厳しく、でも常に生徒に寄り添い、卒業式では呼名できないぐらい号泣して卒業生を爆笑させた伝説の熱血教師。真っ黒に日焼けした顔をくしゃくしゃにする先生の笑顔が好きだった。どんな小さな悩みも真剣に耳を傾け、一緒に全力で悩んでくれた優しい先生を今でも尊敬している。自分もそういう教師でありたいと、目標にしている大先輩だ。  沙世は困った。恩師の退職祝いをすると聞かされては、行かないわけにはいかない。それに今は同じ教職に身をおく者として祝辞を贈りたいとも思う。どうしよう。恐怖心と恩義の狭間で悩んだ末に、沙世はどうにか覚悟を決めた。きっと大丈夫。心配する程自分の心は弱くないはず。そう言い聞かせながら、改めて幹事に訴えた。 「そういう事なら行こうかな。1次会だけね。古谷先生に会って直接退職のお祝いしたいしね」 『マジで!? 良かったぁ~、これでも来ないって言われたらどうすっかと思ったわ!』 「え? 私が行かないと何か涼平が困る事でもあるの?」 『は!? あっ、いやっ、別に! 場所はそのうちメールすっから! 必ず来てくれよっ。じゃあ当日会場で会おうな!』  ちょっぴり涼平の不自然な態度が気になったものの、さほど深く考えずに沙世は電話を切った。携帯を机上の端に置いて、途中になっていた期末試験問題づくりを再開する。その後もPTA役員会の書類をまとめたり、体育祭で使用する賞状やトロフィーを準備したりと忙しかったけれど、掘り起こされた高校時代の古傷は一日中ずっと心の中で膿んでいた。 「へぇ~、香坂は中学校の英語の先生か。しかも文科省からご指名なんてスゲェな」  対面でビールを一気に煽った光春が、おかわりを注文しながら笑った。酔っている所為で、やたら声が大きい元バスケ部員に、左隣に座る穂乃果が自慢げに言う。
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