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ー きっと忘れない ー
2番ホームに汽車がきた。
新千歳空港行き、快速エアポート。
鉄筋が剥き出しの高い天井に、甲高いブレーキ音が響いた。黄緑色のラインが入る銀の車体は、高架橋からホームの屋根をくぐると速度を緩め、金属音を引きずりながらゆっくりとプラットホームを流れてゆく。
香坂沙世はベンチに腰掛けたまま、目の前を流れる車体を見つめていた。鉄の匂いを含んだ冷たい風が、セミロングの柔らかい髪とスカートの裾をふんわり膨らませる。小さな顔に収まる二重の大きな瞳も、寒さの所為か今は伏目がちだ。足元から這い上がってきた硬い冷気に、沙世は小さく身を震わせた。
北海道の天気は気まぐれだ。5月も中旬だというのに、ここ数日は3月並みにぐんと冷え込んでいた。早朝は吐く息さえ白く濁る程の外気の中、鉄筋とコンクリートが覆う吹き抜けのプラットホームで汽車を待つのに、薄手のカーディガンにスカートというコーディネートはあまりに軽装過ぎたかもしれない。
周囲を見ると、土曜日の夕方にしては少ない方だが、それでもホームには結構な人がいた。みんなショールや春用のアウターで防寒している。
冷たくかじかんだ手をぎゅっと握り締めて、沙世は迷いを吹っ切るように息を吐くと、隣に置いたキャリーケースのハンドルを力強く握った。もう何度同じ動作を繰り返したんだろう。天井のガラスから射していた朝日は、いつの間にか夕日に変わっている。
<――2番線に、新千歳空港行き、快速エアポートが到着致しました――>
銀色の車体が乗降口を示すラインに止まった瞬間、プシュっと勢いよく空気を噴いてドアが開いた。並んでいた乗客達が、下車する客達と入れ替わりに次々と乗り込んでゆく。
けれど沙世は、ベンチから腰を上げなかった。キャリーケースのハンドルを握ったまま、苦しげに汽車を見つめていた。
どうしてだろう。
まただ。
また、体が動かない。
この汽車に乗れば、新しい人生を始められる。好きな人と2人で、幸せな未来を築く事ができるのに、まるで神経が凍りついてしまったみたいに体が動かない。
<――新千歳空港行き、間もなく発車します。ドアが閉まりますのでご注意下さい――>
電光掲示板に、出発の文字が浮かんだ。柱のスピーカーからピロロロロと軽快なベル音が流れるのと同時に、ゆっくりとドアが閉まる。空港へ向かう銀色の車体が、冷たい風を従えて再びホームを流れ始めた。
「……」
遠ざかる汽車の赤いテールランプをぼんやり眺めながら、沙世はキャリーケースから離した手を膝の上に戻した。不意に視界に入った反対ホームの電光掲示板には、16:12と表示されている。それを見て、沙世は次の汽車が彼と旅立つ為の最終列車だと気がついた。
今朝アパートを出る時、全て捨てる覚悟をしたはずだった。
家族も、仕事も、全部置いて彼と一緒に行こうと決意したはずだった。部屋の物は業者に頼んで処分してもらおう。職場には月曜に新天地から電話して退職するつもりだった。非常識だと罵られてもいい。無責任だと責められても構わない。どうせもう日本には戻らないんだから―――そう思って、必要な物だけキャリーケースに詰め込んで家を飛び出したのに、未だ前に踏み出せないのは家族を裏切る事への罪悪感が理由じゃない。
姉の夫と不倫を始めた時点で、罪悪感なんていう良心はとっくに捨てた。
義兄を男性と意識したのは、いつ頃だったんだろう。自分でもよくわからない。気づいた時にはもう、お互いに気持ちを同じくしていたような気がする。
奔放で行動力のある美人の姉は、とにかく自由な人で、昔から男付き合いが派手だった。それは結婚してからも変わらず、むしろ"人妻"という華やかな肩書を手に入れてからは一層派手に遊び歩いていた。
当然、真面目で優しい義兄との結婚生活なんて続くわけもなく、結局2年目を迎えた先月、2人は正式に離婚。表向きは姉の浮気が原因。でも、不特定多数の男相手に遊んでいた姉より、密かに義理の兄と不倫する妹の方が罪深いかもしれない。
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