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幸いなことに還暦まで生きることができた。 加齢臭臭いことを言わせてもらうなら、ここまで良いことよりも嫌なことが多かった気もする。 いや、もしかすると嫌なことがより記憶に強く残っているだけなのかもしれないが、なんにせよ、いくつになっても浮世はそうそう良いことばかりではない。
でもどうだ。 この夕風呂の贅沢は。 風呂を尊ぶ日本人文化に生まれ育って良かったと、心から思える。
昼と夜の空気が汽水のように混じる中、そこそこ熱いお湯がある。 音楽がある。 石鹸の香りがある。 そしてビールが私を待っている。 おや? なんだか嫌なことがずっと頭の中を巡っていたのが消えてしまった、と書くと嘘だな。 それは嘘だ。 でも忌々しい思いが少し遠くなったような気がする。 うん、これは嘘じゃない。 しかもまだ夕方だ。 これから始まる夜はまだまだ長くて楽しい。
この慈愛溢るる時間に会社の机に張り付いている人、いわんやまだ会社にすらたどり着けない営業帰りの人々。 今度の休みには夕風呂を試してみるんだ。 ビールを買ってくるのを忘れるな。 苦いから嫌だとかいうんじゃない。 子供か、お前は。
お気に入りの曲を用意するのも忘れるな。 なに?そんな防水スピーカーは持ってない? 仕方ないな、浴室のドアの外で鳴らせば良いか。
そんないささか滑稽で、かすかに背徳的な魅力を一度知ってしまえば良い。 そうすれば残り五日や六日が夜中の泥風呂でも毎日が少し軽くなる。
え?歳とると湯が汚れるから、そんな早い時間に一番風呂に入れない? それは困ったな。
捨ててしまえ。
愉悦の時間を楽しんだらさっさと湯を捨てて、ボタンを押して新たに入れ直せば良い。 環境保護にはちょっと申し訳ないけど。 何よりあんたは長い間、人生頑張ってきたんだ。 そして言っちゃ悪いが、この先それほど長くないかもしれない。 だったらそれくらいの贅沢しても良いじゃないか。
上がると同時に風呂の栓を抜き、体を拭き終わったらもう一度栓をしてボタンを押し、颯爽と風呂場から出てゆくのだ。
もう一度言うぞ、そこから始まる夜はまだまだ長くて楽しいんだ。
夕風呂こそが日本人の黄金郷、エルドラドなんだ。 楽しもう。 楽しもう。
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