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冷たい水に目が覚める。それは父にこの身を捧げる、地獄の一日の始まりを告げる合図でもある。
だが、それは昨日までの話。今日からは違う。そうあって欲しい願うのも、毎朝の日課だ。
そう思った時、私の脳裏には五日前に聞いた、ある男の言葉を思い出した。
その言葉に、縋る価値はある。何故ならば、此処以上の地獄は無いのだから。貧乏で、実父の慰みもの以上の地獄は。
(行こう)
私は振り返らずに、裏長屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇
父は、版木彫り職人だった。
腕は良く、母が亡くなるまでは、雇われであるが、責任ある仕事を幾つも任されたという。
しかし、母が茂吉という父の同僚と駆け落ちすると、父は怒りと悲嘆の末に酒に溺れ、職場でも遅刻や喧嘩を繰り返し、そして暇を出された。
今は、知り合いの版木彫り職人の手伝いをしているそうだが、それは決まった仕事ではなく、故に収入も不安定だった。
母への憎しみ、鬱屈が全て、母に似すぎる私に向けられたのだろう。
始まりは、私が十一歳の時だった。
「お父ちゃん、酒は程々にしなきゃいけないよ」
酔って帰ってきた父に、私は言った。
すると、それが父の気に障ったのだろう。私の髪を掴んで、そのまま布団に投げ飛ばした。
それから父は私の上に跨り、二発頬を殴った上で、
「させい」
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