◆File H.<天>

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 己より清らな命の未来を摘むのは、きっと気持ちの良いことだろう。ヒトが切り花を飾ることを好み、乙女の春を奪って愉しむように。  運命とは、この手の中にあるもの。そう思い込めるほど、彼が強い化け物ならば問題はなかった。これから彼の身は、人世を穢す(わざわい)に変えられていくのだから。どれだけ彼が、帰りたかったとしても。  大空を泳ぐ蛇のような船の上で、座り込んでしまった彼の膝で。呼吸をせずに瞼を閉じて、動かなくなった少女の項垂れた真っ黒な頭。  こういった青い艶のある漆黒の髪を、鴉の濡れ羽というのだと習った。彼が隠し持つ短刀を突き立てた、柔らかな心窩から流れ出る血も、さらりと横たわる羽を汚すことはない。  甲板の端、見えない壁に隔てられた先、この船に囚われている化け猫が必死に呼びかけていた。立ち上がった彼が血まみれの少女を床に打ち捨て、船のへりに寄りかかったのを見たのだろう。  倒れた鴉羽の少女と協力していた化け猫。どちらも彼を助けようとしたのは知っていた。だからこそ応えられない彼は、声を出すことがまずできなかった。切り札の短刀を使う時に、先に己の喉を切って「力」を足したためだ。  ――どうして、と。目敏い化け猫はいち早く、彼の心を悟ったらしい。  彼も少しだけ安堵できる。何故なら彼は、化け猫を抑止させていた人質も先刻殺した。耐え続けていた化け猫を表に引きずり出すことができた。  これでもう、彼の仕事は終わり。彼がここにいる意味は果たした。  元よりとっくに消えていたはずの命。自身で深く抉った首の傷から、短刀に向けて命が洩れ出し、急速に全身が冷えていくのを感じる。  息を吸おうとするとべたりと血が絡み、目の前が真っ暗に落ち込む。最早、化け猫が呼ぶ自分の名前すら聞こえないのは、血潮が絶えるせいだけではない。先日まで眠っていた彼は、名前を思い出したのもこの船に来る直前であり、化け猫の飼い主に襲われた時、ヒト殺しの彼が目を覚まして対処しただけに過ぎない。  だから化け猫は勝手に、己の飼い主と落とし前をつければいい。彼と鴉羽の少女を殺し合わせたのは、彼とは本来縁のない飼い主達の都合だ。あちら側では鴉羽の少女は、生け贄となっただけのこと。少女の青い濡れ羽を摘めと促す、「悪」の「神」を起こすために。  そう。少女を手にかけた彼は、これから「悪」という「神」になる。  少女から奪った黒い翼が彼の楚となる。彼だった少年の名を闇に隠して。
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