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――どうして? 「悪」の意を持つ黒い翼を、知っていた化け猫は叫ぶ。その翼を持った少女を、殺してはいけないとわかっていたはずだと。
彼だって利用されたのは承知の上だ。この黒い翼に顕現する「神」といった存在は、魂のウィルスだと誰かが言っていた。「神」は、その字を含む「精神」に似た存在で、全ての精神あるヒトは「神」の器であり、触れてしまえば器に流れ込んでくる――祟るものが「神」なのだと。
だからわかっていてやった。「神」の生け贄の少女を殺せば、彼も「神」に感染してしまうこと。そうなれば彼程度の卑小な命は隠されること。
生け贄から人に戻った少女。取り落とした短刀を横に、足元で転がる死体を見下ろすと、固まった喉で、最後となるかすれ声を絞り出した。
「利用するなら……ちゃんと、してくれ、よ……――」
どうして、と言うなら、彼こそどうして、とききたかった。少女達が今の彼を、助けたいと迷ってしまったこと。それが過ちの大元だったのだから。
彼はそんな、優しさを弱みとする少女の体に穴を開けた化け物で、「悪」の意に相応しいヒト殺しだったというのに。
少し前に、彼を助けに来た養父の攻撃を受けて、船の外面はところどころが崩れていた。木材が折れて壁ごと歪み、低くなっているへりを後ろ手で掴んだ。
もう、立っていられない足がへたれる。くらりと空を仰いだ彼に、初めて化け猫以外からの、大切なはずの声が届いた。
――師匠、だめです! せっかく戻れたのに……師匠!
そのいたいけな焦った声は、彼がかつて、守ろうとしたはずのもの。今の彼には相手が何者か、何処にいるのかを思い出せないでいても。
鴉羽の少女から離れ、船の端で彼が暗い目に白の空を映すまでに。
彼にはとても、長く感じられた時間。彼がそのまま、へりの割れ目から蒼穹に吸い込まれるまで、駆け寄ろうとした者達が間に合わないほどの束の間だった。
ごめんなさい。倒れる背中が船から消える時、その一言だけを残して。
「ごめん……ごめんな、レン……」
彼は所詮、ヒト殺しだから。師匠と呼んでくれた声の誰かも、助けてやることができなかった。
「レンも……俺が、殺したんだな……――」
その誰かを守るなら、「神」を殺すことだけは、してはいけなかった。
彼と常に、共に在る誰かだから、これで誰かも身体ごと「神」に染められてしまう。最早、戻ることはできなくなったのだから。
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