4.月華の君

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 それは春の悪戯だったのかもしれない  今年の春はいつもより拙速で、彼岸とともに桜が開花した  もし例年通りの桜前線の北上であれば、何事もなく過ぎてしまったのかもしれない  カメラが趣味の僕は、毎年妻と近くの公園や、隣町にいく途中にある河川敷まで桜を見に行く  妻と桜を被写体に緩やかな時間を過ごすのだ  別にそれを毎年楽しみにしていたわけではないが、春には桜を、夏には砂浜を、秋には紅葉を、冬には雪景色を観に少しだけ足を延ばしで出かけることは、何の変哲のない日常のごく一部でしかなかった  だからこそ、日常だからこそ、それが台風や、大地震や、寒波などで予定が狂うこと以外でしないというのは、非日常と言うことになる  妻と僕はずっとこの日常の中で緩やかな時間を過ごしてきた  そこに何の不満もなく、それを守らなければならないという義務感もない  そういうことが、急に音も立てずに突然崩れる日が訪れるということもまるで想像もつかなかった  僕は守らなければならない  この平穏な日常を、今まで通りに過ごすことをしなければならい  僕は、僕が平穏に過ごしてきた日々と、妻を守りたいし、これからも守っていく  守って、いかなければならないのだ  それだというのに、どうして季節は気まぐれに僕の平穏を犯そうとするのか  いつもより早く訪れた桜の開花時期――予定ではただの休日であり、ただ、友達と会うだけの約束と言うことで、僕は家を出た 「ついでに下見をしてくるよ」  そう言っていつものようにカメラバックを背負って出たものの、正直なところ気が気ではなかった  なぜなら僕は、妻に嘘をついて、出かけるのだから  春の悪戯  見送る人に置き土産  言の葉ゆれる嘘にまみれん  口惜しいかな  ひらひら舞うはソメイヨシノの  逸る季節にせわしなく  月華の君を狂い咲かせて  乱れる心の ゆらぎ止まらず   
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