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クリスティアンに先導された賢吾と透はエレベーターで2階まで下り、すぐ前にある部屋へ案内された。
6畳ほどのロココ調の部屋は、淡い水色の壁に同じく淡い金色で縁取りの装飾が施され、カードゲーム用の小さな丸テーブルが置かれている。
壁より濃い水色をした布張りの椅子をクリスティアンが引き、透に座るよう促した。
賢吾は自ら椅子を引いて透の隣に座り、簡易な応接間らしき部屋を見渡す。
マントルピース上の絵画には、窓辺に置かれた花瓶が描かれており、斑入りの赤いチューリップ、黄色い水仙、白いバラ、水色のアイリスとアジサイ、ピンクの濃淡が豪奢なシャクヤクなどが美しく咲き乱れていた。
天井からつり下がるシャンデリアも小ぶりではあるものの、クリスタルの輝きが華やかだ。
クリスティアンが部屋を出るのと入れ違いに、隣室に繋がるドアから都があらわれた。
まっすぐに落ちるロングのストレートヘアー、黒いワンピースと黒いハイヒール―数年前に神戸で会った時とまったく変わらない、つまり、とても半年前に出産したとは思えない容姿を見て透は驚き、賢吾は微笑んだ。
「都さん、お招きいただきありがとうございます」
都は一度濃いまつ毛を伏せからゆっくりと上げ、何もかもを見通す黒い瞳で賢吾と透を見つめる。
赤い唇がかすかに笑みを形づくる。
「ケン、北川さん・・・・お元気そうね。来てくれてうれしいわ」
都にそう言われただけで、透はこの屋敷に逗留してもよいのだと改めて思い、緊張がほぐれるのを感じる。
賢吾にはああ言ったものの、想像以上の豪邸に透も気が引けていたのだ。
「こちらこそ、再びお目にかかれて光栄です」
透も微笑み返したところで、クリスティアンがティーセットを運んできた。
「長時間のフライトで疲れたでしょう」
「そうですね。しかし、はじめてのことも多いので楽しいですよ。パリを舞台にした映画は何本も観ていますが、実際に目にするとまったく違う感動があります」
透の返事に都は頷き、賢吾に目を遣る。
「オレはそういう透を見ているのが楽しいです」
「そうでしょうとも」
都は淡々と返事をし、ティーカップを持ちあげる。
賢吾と透は微笑いながら紅茶を飲み、ふわりと口に広がるやさしい香にほっと息をついた。
そこへ控えめなノックの音が響き、グレゴリーが入ってきた。
「あなたたちにはグレゴリーをつけるわ」
グレゴリーは空港で見せた笑顔よりも幾分儀礼めいた微笑みを浮かべて言う。
“なんなりとお気軽にお申しつけください”
「都さん、”つける”というのは一体・・・・別にオレたちは・・・・」
賢吾の言葉を都はぴしゃりと遮る。
「When in Rome, do as the Romans do.(郷に入れば郷に従え)。・・・・ケン、あなた疲れているわよ。鈍すぎるわ」
都はそれだけ言い、再び紅茶を口に運ぶ。
困惑した賢吾と透をなぐさめるようにクリスティアンが微笑んだ。
“お二人は初めてのパリで初めての屋敷に逗留されるのですから、生活するうえでお困りになることもおありでしょう。その際、奥様にお尋ねすることはできかねますから、グレゴリーにお申しつけください、と申しているのです。ホテルのスタッフと思っていただければ結構です”
にこにこと微笑みながら解説するクリスティアンの親切心に、賢吾と透も安堵の表情になる。
クリスティアンは続ける。
“グレゴリーが不在の時は私にお申しつけください”
“わかりました。ありがとうございます。よろしくお願いします”
賢吾はクリスティアンに言い、グレゴリーへ顔を向ける。
“グレゴリー、よろしくお願いします”
賢吾と一緒に透も頭を下げた。
“頭を下げる必要はございません。こちらこそよろしくお願いいたします”
グレゴリーはふたりにだけ見えるように明るく微笑んでから、部屋を出ていった。
都は何事もなかったかのように話を続ける。
「あなたたちの部屋がある棟は誰も使用していないの。遠慮は無用よ。自分の部屋だと思って好きなように使いなさい」
「そうさせていただきます」
賢吾は微笑んでティーカップを口に運んだ。
透も賢吾に倣いながら、不意に顏を上げて都を見る。
「そう言えば、ガブリエルくんには会えますか?」
「ガブリエルで構わないわ。隣の部屋にいるわよ」
透は隣の部屋へと続くドアにちらりと目をやる。
「写真を拝見しました。控えめに言って、非常にかわいいです」
「ありがとう。夫の小さい頃にそっくりだそうよ」
都は立ち上がり、ふたりを隣室へと案内した。
ドアの向こうは、同じく淡い水色で統一されたロココ調の広間だった。
そこにはパンツスーツに黒いエプロン姿の女性と・・・・
「天使が・・・・ほふく前進してる・・・・」
明るい栗色の巻髪をした天使は羽根を持たない代わりに、なかなかの早さで床を這っていた。
足の動きよりも腕の力が強いようで、這い這いというよりはほふく前進をしているように見える。
都に気づいたガブリエルは満面の笑みを浮かべ、スピードを早めて一直線に母親へと向かっていたが、疲れたのか5メートルほど進んで動きを止め、ピンクの唇をへの字に歪ませた。
「ガブリエル」
都のその一言で、天使はまたたく間に笑顔を取り戻し、再び力強く前進しはじめ、絨毯の端に立つ都の足元までたどり着く。
むきたてのゆで卵のような頬を紅潮させ、褒めてと言わんばかりに母を見上げるガブリエルをスーツの女性が抱き上げて都に渡す。
若草色をした大きな瞳が一心に都を見つめ、小さな手がスーツの襟をぎゅっと握りしめる。
さすがの都も微笑むしかないようだ。
「ガブリエル、素晴らしいわ。よくくじけなかったわね」
「マン、うー」
まだ言葉を理解する訳ではないだろうに、ガブリエルは返事をして輝くような笑顔の花を咲かせる。
「こちらはお客様よ。ケンと北川さん」
都がふたりのほうへガブリエルの顔を向ける。
「ガブリエル、初めまして。ケンです」
「初めまして、北川透です」
ガブリエルは不思議そうにふたりを見たあと、にっこりと笑った。
無垢な笑顔にふたりして相好を崩す。
「めちゃめちゃかわいいねぇ」
「ああ、写真よりずっとかわいい」
「だね。今まで見た赤ちゃんの中で一番かわいい」
そこへ突然、スーツ姿の女性がクールな声で
「見た目はね」
と日本語で割り込んできた。
賢吾と透は声の主を見るのと同時に都が紹介する。
「彼女はオドレイ。私の親友であり、秘書でもあるわ」
「今はモンスターのベビーシッターもさせられているわね。初めまして、滝田さん、北川さん。お噂は都からかねがね」
オドレイはブルネットの髪と瞳をした女性で、華奢な都の隣に立つと一回りほど大きく見える。
高い鼻、くっきりとした二重の瞳、きりりとした眉は都とは違う種類の意志の強さを感じさせた。
賢吾は、都の親友という存在に内心で驚きながらも口を開いた。
「日本語がお上手ですね」
「ありがとう」
「モンスターというのは?」
オドレイは知的な容貌を思いっきり歪める。
「ガブはね、泣き声が凄まじいの。まるで地獄から響いてくるようよ」
それを聞いた賢吾と透は再びガブリエルを見る。
天使と見まごうばかりの笑顔が少し違って見えるのは気のせいか。
「十分に気をつけます」
「よろしくね。たまにはガブと遊んでもらえると助かるわ」
そう言って、オドレイはチャーミングなウィンクをふたりに寄越す。
そこへ電話の着信音がし、オドレイがスマホを手にフランス語で話しはじめた。
「仕事の電話ね。ご覧の通りオドレイは優秀なの」
「マン、マン」
ガブリエルの小さな手のひらが都の胸を叩く。
「ガブリエル、あなた随分重たくなったわね。順調に成長してくれて頼もしいわ」
やさしく微笑みながらガブリエルを絨毯へ下ろそうとした都を
「不用意にガブを降ろさないで」
オドレイが止め、電話に戻る。
都は不安そうな表情をしたガブリエルを抱いたまま、やむなく傍らの椅子に腰を下ろした。
「マン、マン」
「安心なさい。オドレイの電話が終わるまではこの体勢よ」
再び都にぎゅっとしがみつくガブリエルを眺めながら、透が口を開く。
「さっきからガブリエルはママって言ってるんですか?」
「まだ意味のある言葉は喋れないわね。喃語と言うそうよ」
「ですよね。でも、なんとなく状況を理解しているように見えます」
「確かに。都さんに抱いていてほしいみたいだ」
都が口を開く前に、
「こんな母親でも特別なのよ」
電話を終えたオドレイが言ってガブリエルを抱こうとしたが、
「なーなー、マン、マン」
肝心のガブリエルは断固として都から離れない。
「このタイミングで無理に引きはがすと地獄の泣き声が聞けるわよ。いかが? せっかくの機会だから試してみる?」
不穏に微笑むオドレイを、透も賢吾も全力で止めにかかったのだった。
夕食を終えたふたりは、時差ぼけ予防のために散歩に出かけた。
パリの9月の夜は日本よりもはるかに涼しく、心地よい風が吹いていた。
そこには日本の街でよく見られるネオンの明るさはない。
建物の窓から漏れる光と、並木に埋もれるように立つ街灯の光がほとんどすべてと言っても過言ではないが、そのほのかな光では照らしきれない暗さは恐怖よりも親密さを誘った。
肩が触れ合うほどの近さで、囁くように会話を交わす。
賢吾が地下鉄の入り口を示すクラッシックなデザインをしたMETROの赤いサインを指さした。
「明日はこの駅から乗ろうか」
「そうだな、駅が近くて便利だ」
明るい光が溢れる出入口を通り過ぎ、少し歩いて交差点に出た。
いびつな角度で交差する道で正面にあるのは、カットされたチーズケーキを思わせる二等辺三角形の建物だ。
先端には大きく枝を張った街路樹が立っている。
透はその風景につられるように足を止める。
右方向に数歩進んだ賢吾が振り返り、不思議そうな瞳で自分を見ていることに気づいて口を開く。
「道路が直角に交差していないよな」
賢吾は交差点に目を遣り、自分の隣に立つ透に笑顔を向ける。
「だね、碁盤の目みたいになってない」
再びふたりで歩きはじめる。
さっきまでの住宅街とは異なる大きな道路には、車も走り、人通りもあった。
観光客なのか地元民なのか区別はつかない。
「さっきからあんな形をした区画がけっこう多い。おもしろい」
「おもしろい?」
「ああ、遊び心というか、街に表情がある」
「それは・・・・似たような建物が多いから変化が乏しそうに感じるけど、碁盤の目になってないぶん街の表情が豊かってこと?」
「そういうことだな」
「うん、おもしろいね。これで碁盤の目だと似たような風景になって迷いそうだしね」
「はは・・・・確かにな。・・・・ああ、でも、この街でお前と迷うのも悪くない」
透は笑顔で街と通りを歩く人々を見回し、視界の端で賢吾のうれしそうな微笑を見とめて、自分の発言が少々恥ずかしかったことに気づいた。
「いいね。ちょっとしたハプニングは旅の醍醐味だよ。・・・・たぶんね」
からかいもせず、さらりと返してくれる賢吾特有のやさしさを感じ、透はふっと息を吐いた。
透の言葉は紛れもない本音で、人生初の海外旅行が賢吾と一緒であることには安心しかない。
「最初はどうなるかと思った」
透がぼそりと呟く。
「と言うのは?」
「豪邸だし、執事いるし、都さんだし・・・・緊張したけど、すごくあたたかい家だった」
「そうだね。都さんは相変わらずなのに周りはフレンドリーでさ、拍子抜けしたよ」
家の主である都の夫には仕事の都合で会えなかったが、夕食は彼以外の全員で食卓を囲んだ。
つまり、都とガブリエルだけではなく、使用人であるクリスティアン、グレゴリー、オドレイ、住み込みでメイドのアルバイトをしている女子大生のアルバ、エレノア、ニーナも一緒だった。
彼女たちは都が才能を認めた学生で、生活費も学費もすべてファージュ家の援助を受けていた。
夕食は彼女たちお手製のフランス家庭料理で、野菜と牛肉の煮込みとキッシュ、サラダ、バニラアイスクリームというメニューで、味も申し分なかった。
透がひそかに不安を覚えていた食事のマナーは気にするほどでもなく、大勢で会話をしながらする食事は楽しかった。
「特にオドレイには安心したな。都さんに学生時代からの親友がいるとは思わなかった。日本語がすごく上手だし」
「ああ、俺も驚いた。オドレイは率直で助かる」
はは、と賢吾が笑う。
「都さんと違って、ね」
「でも、都さんもガブにはやさしかったな」
「一般的なお母さんよりはクールだけどね」
賢吾の言葉に透も笑う。
「ガブがほふく前進の途中で止まった時、都さんが呼んだだろ? あれをそのままにしていたら泣いたんだろうな」
「確かに。泣きそうになってた。あの時はそんなに大きな声で泣くとは知らなかったから気にしなかったけど、かなりヤバい状況だったのかも」
「でも、都さんに名前呼ばれた途端に笑顔になってさ、かわいかったな」
「天使みたいにかわいかった。ガブを見ている透もかわいかった」
賢吾は愉しそうに笑っている。
「またお前は・・・・」
「ガブの無邪気さが移ったみたいだったよ。ついつい笑っちゃう感じがね」
「そうか・・・・ま、そう言うお前もかわいかった」
「そう?」
不思議がる賢吾を見て透は楽しそうに微笑み、続けて大きなあくびをした。
「眠い?」
「ああ、日本時間では午前5時くらいだよな」
「だね、ほぼ完徹」
言いながら賢吾もあくびをする。
まばたきを繰り返し、少しばかり潤んだ黒い瞳が街の灯りとはあきらかに異なる光を見つける。
「・・・・あ、見て」
それは彼らの右手奥に突如現れた。
「おおー」
ライトアップされたエッフェル塔が、やけに奥行きのある公園の突きあたりで唯一無二の存在感を放っていた。
ふたりが小走りで人影もまばらなシャン・ド・マルス公園に足を踏み入れた途端、ライトがキラキラと点滅しはじめる。
「シャンパンフラッシュだ」
賢吾がつぶやいた。
「シャンパンフラッシュ・・・・洒落た響きだ」
「ほんと。タイミングよく見れた。ちょうど22時」
弾んだ声の方へ透が顔を向けると、賢吾の瞳にシャンパンフラッシュが映り込んで、キラキラと光っているのが見えた。
とてもきれいで、見惚れてしまう。
透の視線に気づいた賢吾が、甘い笑顔ですばやく透の唇を奪い、手を繋いでくる。
その手を握り返しながら、シャンパンの泡が弾けるように明滅するエッフェル塔を眺める。
上品な金色の光の瞬きは、エッフェル塔からふたりへのプレゼントのようだった。
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